夕暮れどきの住宅街。家路を急ぐ学生や会社員とすれ違いながら、私は悶々とした気持ちでこれから訪問するクレーマーの自宅に向かっていました。
「なぜ!こんな貧乏くじを引いてしまったのか」。転職したことを後悔しても、刑事時代と違い傍らに相棒は居ません。クレームを発生させたのは店舗なのに「尻拭いをさせられている感」で一杯いっぱいの胸は張り裂けそうでした。
タガがはずれたとしか思えない理不尽な人々
あたりの家々からは、子どものはしゃぎ声やキッチンの明かりが洩れてきますが、その家は暗く不気味に静まりかえっています。郵便受けには、広告チラシや請求書らしきものがぎっしり詰まり、何年もそのままになっているようです。
刑事時代にガサ入れ(捜索差し押さえ)に訪れた家の中には、靴を履いたまま部屋に上がりたいことも多くありました。回線が通じない電話機を分解すると、小さなゴキブリが何10匹と飛び出てきたこともあるという、いわゆるゴミ屋敷です。
日々、さまざまクレームと向き合っていると、しばしばタガがはずれたとしか思えない理不尽な人々に出会います。
私は、今から18年前、それまで17年務めていた警察を退職し、警備員の指導教育担当を経て小売業(スーパーマーケット)の社員に転職しました。39歳の時です。通常、警察官は60歳まで勤めた後で、年金生活までのつなぎに再就職するものです。
警察OBと言っても、若くして地位もなく転職した私は、警察に顔が効くわけではありませんでした。ある店長から「まだ若いから、やっぱり警察OBは元署長クラスじゃないとだめだ」と「役に立たない」レッテルをはられたことさえあるのです。
このように言うと「刑事時代に脅迫や恐喝などのクレーム(イチャモン)を手がけていたからできるじゃないか」と反論されるかもしれませんが、実際はそうではありません。刑事時代には、現場で様々な仕事を担当しましたが、特にクレーマーや理不尽な人にまつわるトラブルばかりを多く手がけたわけではありません。
再就職先が経営破綻。「お先真っ暗」
また、転職し「お客様」の対応ということ自体がカルチャーショックでした。それまで刑事だった人間が、むちゃくちゃな理屈で理不尽な要求を並べ立てる相手にも、あくまで丁寧な姿勢で、根気強く対応するというのは、当時の私にとっては、苦行以外の何物でもなかったのです。
「いらっしゃいませ」「少々お待ち下さい」――毎日の朝礼で唱和する接客用語にも慣れるまでずいぶん苦労しました。
60歳で転職していたら「今さら接客用語なんかできない」「後輩に見られたら恥ずかしい」などと考えて、警察官のプライドにこだわり、頑なになっていたことでしょう。
しかも、家族を養わなければなりません。40歳と言えばあと20年は働く計算になります。家族を養うためにも、恥ずかしがってなどいられませんでした。まだまだヤル気も体力もありました。スーパーマーケットという異文化に順応する柔軟性と刑事時代に経験した困難な局面での踏ん張りが、私の唯一の財産でした。
こうして、悪質クレームの処理を通じて対応力を身につけて行きました。酔っ払った男性の自宅を訪問し、罵声と唾のしぶきを浴びながらノウハウをためて行ったのです。冷や汗をかきながら実際に現場でいろいろなことを考え、工夫しながら対処することしか方法はありませんでした。
今思えば、こうした体験の中で身を持って、小売における対処方法を築いていけたのは幸いだったと思っていますが、当時は疫病神に取りつかれていとしか思えませんでした。
更に艱難辛苦は続きます。何と、転職して5年目の年に再就職していた大手スーパーマーケットが経営破綻したのです。もう、「お先真っ暗」です。先の見えない不安感で、心の中の闇も深まり溢れだしそうになりました。(援川聡)