駄洒落を楽しむ余裕
判じ絵は、言ってしまえば駄洒落である。
漢字の読みだけで何通りもあり、同音異義語も豊富な日本語にあっては、駄洒落のバリエーションは無数に考えられる。さらに上手にひねれば発想はもっと広がる。
ひねった有名な例がある。古い商店に「一斗二升五合」と大書した額を見かけることがあるが、「五升の倍(一斗)桝桝(一升桝二つ)半升(一升=十合)」つまり「御商売益々繁盛」と読ませるわけだ。
そうした江戸の駄洒落の絵解き版たる判じ絵を見ていくと、「くだらない」「それはないだろう」などと言いながらも、頬が緩んでくる。
別に後に何が残るわけでもない。興趣というほどのものもない。ただ一時の娯楽に過ぎないものではある。だが三百年の時空を思えば、江戸庶民の大らかな遊び心に同調する時間は悪いものではない。
比べて、生真面目な建前がまず求められる今の世は、駄洒落に冷淡だ。
駄洒落好きの某国会議員は、政府の公職に就いた途端、駄洒落を封印せざるを得なかったという。窮屈極まりないとも思うが、高位高官ともなれば、不真面目な一言がすぐに批判や炎上に結びつく時代である。致し方なかったのだろう。
では私的な場面であれば駄洒落は許されるか。否。「オヤジギャグ」として蔑まれる。ふと思いついた駄洒落をうかつに話せば、家族にさえ白い眼で見られる。
そもそも「オヤジ」ギャグという言葉が否定的な意味を持つこと自体、中年男性への差別ではないか。五十男の評者は、つい、そう疑いたくなる。
だが、世は多様性を重んじ、少数者を尊重する時代である。マジョリティーたるオヤジたちは、その反作用として、これまで以上に冷たい視線をも甘受するべきなのかも知れない。
そう思って江戸時代の世相を空想する。何しろ判じ絵が流行った時代である。当時はオヤジ達にとって、今よりはもう少し住みやすい世の中だったに違いあるまい。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)