株式会社ニコリでパズル誌の発行に携わり、現在は一般社団法人日本数独協会の代表理事の後藤好文さん。数独を愛し、20年以上にわたりその魅力を世界に広め続ける後藤さんが、数独のはじまりから現在にいたるまでの数々の歴史を、ご自身の体験を交えて語ります。
ニュージーランド人で香港判事であったウェイン・グールドは、多忙で神経を使う仕事の合間にパズルを解くことが唯一の趣味であった。「答えが一つしかないことが好きだった」と彼は語っている。そんなウェインが判事を辞し、祖国ニュージーランドに帰る途上、日本に立ち寄った。1997年のことである。飛行機の中の退屈しのぎに何かよいパズルはないかと、書店のパズルコーナーを漁ると数独の本がずらりと並んでいた。もちろん日本語は読めなかったが、例題を見ただけでルールが理解できた。
ウェイン・グールド氏
ニュージーランドに戻ると、彼は数独の本を一冊しか買わなかったことを後悔した。一度書いた答えを全部消して、もう一度解いたそうだ。
どうしてもこのパズルをもっと解きたいが、ニュージーランドでは売っていない。そこで彼は、鍜治や西尾と同じように自分で作ることを考えた。
ただ、彼の場合、多少コンピュータの知識があったので、問題を自動生成するプログラムを作れば、いくらでも遊べると思った。つまりウェインは問題を作ることではなく、解くことに興味があったのである。
そこから2年の歳月をかけ、彼のプログラムはどうにか数独らしき問題を生成するようになった。そこで、これをインターネット上に公開し、他のプログラマーがどう評価するか試してみたくなった。ただその前に、この数独の本を作った日本のニコリという会社に敬意を表し、挨拶するべきと考えた。
1999年、私は財務兼海外担当というポジションで株式会社ニコリに入社した。昔「こんな本は売れない」とケチをつけた出版社に自らが入ることになろうとは思ってもみなかった。入社早々飛び込んできたのが、ウェイン・グールドからのエアメールである。礼儀正しい文章の自己紹介に続いて、インターネット上に「sudoku.com」というサイトを立ち上げたいので認めてほしいという内容であった。ニコリが所有していた商標登録は日本国内だけであったから、海外で「数独(sudoku)」の名前を使うことに対し何か言える権限はなかった。もちろん、元香港判事はその辺もすべて調べた上で、仁義を切ってきたのである。「名前を使うことにNOとは言えないが、数独をプログラムで自動生成することには疑問がある」というような返事をしたら、年を越した2000年2月、ウェインは日本に乗り込んできた。
会ったのは新橋のホテルだったと記憶している。「数独の問題は、一問、一問が個性的であるべきだ。プログラミングで生成した場合、一律的になってしまうのではないか」これが当時のニコリ編集部の自動生成に対する考え方であった。それをウェインに告げると、彼は神妙な面持ちで考え込んでしまった。表出数字は点対称に配置すること、sudokuはスドクではなく、スウドクと発音することなどを私は彼に教えた。そして、ウェインは数独とナンプレの本を山ほど買い込んでニュージーランドへ帰って行った。
それから2年後、ウェインから数独の問題が添付されたメールが来た。「何が数独にとってエキサイティングかを私は研究した。是非、ニコリの人たちに解いていただき、その結果が聞きたい。今、私は日本にいます」
私たちは同じ新橋のホテルでビールを飲んだ。「あなたの問題は結構いいレベルに達しているとニコリでは評価している」というとウェインはとても喜び、パソコンを取り出し、プログラムを走らせた。画面には数独の盤面が立ち上がり、F1ボタンを押すと、問題が瞬時に入れ替わる。「もう少し改善が必要です」。彼は目を輝かせてこう言った。
「数独の好きな風変わりなニュージーランド人」が私の中でほぼ思い出となっていた2004年暮れ、妙な話を耳にした。ロンドンで数独が流行っているというのだ。
その前年の2003年に、私はイギリスを訪れ、老舗パズル出版社との契約に成功し、ニコリとの取引が始まっていた。しかし彼等は数独に興味がなかったので他のパズルを提供していた。早速提携先の会社に連絡してみると、「今、あなたにメールをしようと思っていた。タイムズ(The Times イギリスの全国紙)に数独が掲載され、それが人気になっている」「どうして、タイムズに数独が?」「ウェイン・グールドという男が売り込んだようだ」「ウェイン・グールド!」その時の衝撃は未だに忘れられない。
後にウェインと会って、彼から直接聞いた話だが、ウェインは初め、ニューヨークタイムズに売り込みに行ったそうだ。アポなしで突然訪ねたので、当然ながら玄関払いをくらい、担当者には会えなかった。(この時のニューヨークタイムズのパズル編集長は第2章 に登場したウィル・ショーツである。もし、受付が面会を許していたら、どうなっていたのだろうか)。
次に彼はロンドンに飛び、タイムズ社を訪ねた。彼はタイムズ紙のクロスワードが掲載されている部分を切り抜き、そこに自前の数独の盤面を同じ大きさにして貼り付けたものを用意していた。受付にそれを渡し、担当者に会わせて欲しいと頼んだが、ニューヨーク同様、追い返されてしまった。ところが、ホテルに戻ると、タイムズ社の担当者から電話がかかってきて、今すぐ会いたいというのだ。
2004年11月12日、タイムズ紙朝刊のパズル欄にウェイン・グールドのプログラムから吐き出された数独が一問掲載された。これが世界中に数独が広まる幕開けであった。1ヶ月もすると、「sudoku」という奇妙な名前も相まって、数独が人々の話題になりだした。明けて2005年、ロンドンはもうsudoku一色に染まり、「今朝のsudokuは解いたか?」が朝の挨拶になっていたという。
タイムズ紙は一気に売上を伸ばしたが、すぐに他の新聞社も追いかけた。というのも、ウェインはsudoku.comというサイトを立ち上げており、その中で自前の数独プログラムを9.95ドルで販売していたのだ。新聞社はこれをダウンロードし、F1ボタンを押しては数独を生成していた。
イギリスの全国紙のすべてと、地方紙のほとんどすべてに毎日sudokuが掲載されだした2005年4月、私と鍜治は一体何が起きたのか知りたくて、ロンドンに飛んだ。提携先の社長が満面の笑みで「さあ、数独の契約をしよう!」と私たちを出迎えた。
ウェインのsudoku.comでは、数独はジャパニーズパズルであり、ニコリ社のオリジナルパズルと書いてあったので、鍜治は数独の創始者として、また奇妙な名前の考案者として一躍、注目を浴びることになる。パブで飲んでいれば、サインや握手を求められ、「私の夫は数独に夢中で、私にかまってくれない。夫を帰せ」とからまれ大騒ぎであった。
しかし、これは始まりのベルが鳴ったに過ぎない。本当のパニックはこれからだった。ロンドンからイギリス全土に、そしてアメリカ、カナダ、オーストラリア、インド、香港と旧大英帝国に数独の嵐が吹きまくると、これを知った日本の読売新聞社が記事にした。Yahooニュースでもトップを飾る記事となり、ニコリのサーバーにはアクセスが殺到し、パンクしてしまった。
もうそこからは何が何だか分からない。毎日のように、世界中のいろんな国から、問い合わせや、取材依頼が飛び込んでくる。数えてみたらその年の暮れまでに、53の国と地域からメールが来ていた。ニコリという会社そのものを買いたいという話やら、儲かったのだから寄付をしてくれというメールやら、アルジャジーラのTV局から取材の申し込みがあったのも驚かされた。鍜治はもはや売れっ子のタレントのように、テレビに、ラジオに、引っ張りだこで登場し、なぜかメンズ雑誌の表紙を飾る仕事まで舞い込んできた。
書店からの注文電話はひっきりなしにかかり、ゲームソフト、携帯アプリ、電子辞書、数独玩具、数独Tシャツついには数独チョコレートまで発売された。一過性のブームかと思ったが、なんとこの状態がほぼ3年続いた。数独のブームは社会現象とまで言われるようになり、ちょうどこの頃から始まる脳トレとのコラボレーションは2006年のヒット商品番付で東の横綱に選ばれた。
スペインの大学医学部の授業に呼ばれたり、スイス大使館でイベントを開いたり、マレーシアの文科省と交渉したり、ニューヨークの桜祭りでブースを設けたりと、鍜治と二人で世界を駆け巡り、得がたい体験をさせてもらった。ワシントンD.C. の日本大使館では宇宙飛行士の野口さんと面会し、「宇宙船の中で、ロシアの飛行士が数独を解いていましたよ」というお話に感激した。
2012年、ニューヨーク桜祭りの会場における数独大会。鍜治が審査員として立っている。
2006年3月には世界パズル連盟(World Puzzle Federation)が主催し、イタリアのルッカで第1回世界数独選手権が開かれた。この時の日本選手団団長は第3章に登場した西尾徹也である。彼自身は選手としても出場し、最年長ながら4位と健闘した。この数独選手権はその後も毎年一度開催されるようになり、今年(2018年)はチェコのプラハで第13回大会が開かれた。個人戦では日本人の森西亨太が昨年に続き、チャンピオンの座に輝き、日本チームも団体戦で優勝した。
また、魔方陣がそうであったように、数独も数学の研究対象としても注目された。9×9の盤面であるから、数独の問題は有限であるはずだ。一体何通りの数独が作れるのだろうか。オーストリアのコンピュータ研究所の計算によると、答えの盤面(つまり、全部の数字が埋まった状態)は、6.67×10の21乗というとんでもない数字であった。これを東工大の研究チームがスーパーコンピュータを4時間使ってすべての答えの盤面にナンバリングをしたそうだ。ちなみにこの数字は毎秒1万問という高速で解いていても、全部解くのに200億年では足りないということになる。
表出数字はどこまで減らしていけるのかという研究をした人もいる。アイルランドの数学者が「17個が最小である」という結論をだした。つまり16個以下だと複数の解答が出てしまい、パズルとして成立しないのだ。今のところ、16個の問題は誰も作りだしていない。
さて、ウェイン・グールドとは2008年に再会した。日本のゲームソフト会社が数独大会を開き、そのゲストとして招待されたのだ。開口一番「怒っていないか?」とウェインは聞いてきた。彼はニコリの許可なく勝手に自作の数独を売り込んだことをとても申し訳なく思っていたらしい。もちろん、ニコリには彼の行為をとがめる権利はなく、むしろ数独の名前を世界に広めたくれたことに感謝している。
私たちは再会を祝し、ビールを飲みながらそんな話をした。これだけの短期間に世界を埋め尽くすだけの数独を供給できたのは、間違いなく自動生成というツールのおかげだ。ただ、ウェインは6年の歳月をかけて数独を研究し、その成果としてのプログラムを完成させたのだが、単にルールを理解しただけの初心者がプログラムを組み、かなりお粗末な数独が世界中に蔓延しているのは少し残念だ。
ウェインに「sudoku.comは順調か?」と尋ねたら、「売却しようと思っている」という。彼のプログラムは飛ぶように売れ、その利益でニュージーランドの他に、ニューヨークや香港に5軒も家を建てた。だが、そのせいか分からないが彼の妻は家を出て行ってしまったそうだ。「もともと数独で商売をする気はなかった。静かな隠居生活を送るつもりがどうしてこうなったのか。」元判事はがっくりと肩を落とした。
中国古代の占いの数表が、スイスの数学者によって論理化され、それをアメリカの建築家がパズルにし、日本の出版社社長が本にしたところ、それを見たニュージーランドの裁判官がコンピュータプログラムにし、イギリスの新聞が掲載したら世界中に広まった。こんな物語を持つ数独は今も多くのファンを引きつけてやまない。これからも、子どもたちの論理的思考のトレーニングとして、高齢者の認知症予防のツールとして、そして何よりも暇つぶしとして、いつまでも愛されていくことだろう。
完
「数独物語」
〔第1章〕数独のルーツ ― 中国の占いから生まれた数独の原型 ―