兼業主夫になり、自分で食事の支度をするようになってからというもの、外食する機会が著しく減ってしまいました。
なので、家計をやりくりして、たまに家族で外食に出かける時は嬉しくてたまりません。なにせ、注文するだけで料理が出てくるのですから。しかも、食べ終わった後は食器の片づけまでやってくれて、洗い物をする必要もありません。ラクちんです。
人が不幸になるゴールを連想させるたとえは不適格
また、外食機会が減ることで、時折、無性に恋しくなる味もあります。
その1つが、吉野家の牛丼。初めて食べた時、「なんや、この美味いドンブリは!」とガッついたことを今でも鮮明に覚えています。家でも牛丼をつくることはできますが、似たような味にはなっても、何かが違います。
なぜ、吉牛(よしぎゅう)はあんなに美味いのでしょう? 久々に食べたいなぁ...。
などと思っていたら、ニュースで吉牛が大きく取り上げられてビックリしました。でも、よろしくない内容のようです。なんでも、マーケティングに長けた吉野家の元役員が、大学の社会人向け講座で「生娘シャブづけ戦略」なるものを披露したとか。
品性のかけらも感じない戦略にあきれつつも、「そうか。自分もまんまとシャブづけにされていたのか」と、一瞬思ってしまいました。
しかし、冷静に考えると、自分は決して吉牛の依存症になっているわけではありません。吉牛は好きですが、なくても生きていけます。禁断症状も出ませんし、シャブづけにされた感はありません。
そもそも、シャブとは覚せい剤のことですから、「シャブづけ」とは違法薬物を投与して依存症にさせることです。それって、その人を不幸にしますよね? 「生娘」や「シャブづけ」という言葉の不適切さに注目が集まるのは当然ですが、人が不幸になるゴールを連想させるたとえを使っている点においても、完全にNGではないですか。
吉牛は、アラフィフ男の自分がいま食べても十分美味い食べ物です。別に、学生時代に食べたことで依存症になったわけではありません。大人になってから高級な料理もそれなりにいただいたことはありますが、やっぱり吉牛は吉牛で美味いのです。
そう考えると、「生娘シャブづけ戦略」には顧客視点が全く反映されておらず、マーケティングの施策としての要諦を何1つ言い当てていないように思います。ますますもって、ナゼこんなたとえを使ったのか意味がわかりません。