前回コラムで触れたように、2001年秋、転職した大手流通業の会社が破綻してしまいました。見よう見まねで、接客用語を唱和しながらようやくクレーム対応に自信を持ち始めたころでした。
それは、出張先の携帯電話に突然かかってきた事業部長の上ずった声から始まりました。「とにかくすぐに事務所に帰ってきて」
声のトーンから事の重大さを思いながら「何でこんなことになるんや」と、わが身の運の悪さを呪いました。
「トラブル対応力」へ寄せられる周囲の期待
それは想像を絶する混乱の始まりでした。一番の問題は、押し寄せる債権者への対応です。それまで取引先や出資者などとして強い結びつきがある関係者ですから、裏切られた感は想像を絶するものがあります。まさに「倍返し」、「憎さ百倍」。すさまじい勢いで押し掛けてきます。「金を払ってもらわないと、首をくくらなければならない」と必死の形相で迫って来ます。
「俺は破綻と何の関係もないのに」と内心ぼやいても、「トラブル対応は援川の出番だ」とばかりに周囲の期待値は高まっていきます。こうした依存性傾向は、トラブルの無い日常において「売り上げアップに貢献しない」と、私に冷ややかな目線を送っていた幹部ほど強いのは皮肉なことです。
内心不満をためながら、それらを一つひとつ対応処理して行ったのです。
経営破たんに伴う債権者の対応は、その後のクレーム対応力にもプラスになったのかもしれませんが、当時の混乱を思い出すと二度と経験したくはありません。
1年後の2002年秋、債務の処理が一段落し経営再建の道筋が示された時点で独立することになりました。
この時、私を援けたのは何か。様々な要因がありますが、大きかったのは孤立していなかったこと、相談すれば支援してくれる「縁」があったのです。
販売競争はしていても、危機管理に関しては共通の問題
同業のA社やB社などにも、警察OBはたくさんいました。しかし、若いほうで50代後半、一番多いのが60歳の定年まで勤め上げた役職経験者でした。
一般に警察OBの相談役といえば、警察にも顔が利くことから、暴力団絡みのトラブルや暴行、恐喝などの「事件」が起きたときには心強い存在です。ところが、事件にならない揉めごとのクレームの段階で、気安く相談することはできません。
その点、私は気軽に相談できる存在だったのでしょう。接客用語をマスターしたことで、仲間として受け入れられるのも早く、私のもとにはさまざまな事案が集まるようになり、幅広いクレームへの対応が私の職務領域になっていったのです。
クレームの現場で経験を積んだ私は、大手流通業で構成する協会で役職をいただきました。本業では、すさまじい販売競争を展開している流通業界ですが、こと危機管理に関しては共通の問題を抱えています。店内の事故や食中毒、万引きやクレーマーなどへの対応です。
協会では、数か月に一度、情報や意見を交換し合っていました。ここでも、若くして転職した元刑事は珍しく、いろいろと意見を求められ、知り合いも増えました。
「援川さんは警察OBらしからぬ感じがして、相談しやすかった」
いまでもときどき酌み交わす知人に言われて、うれしい半面、「どこか頼りなく威厳がない自分」を反省しています。
こうして、運よくまわりの支援を得て独立し、なんとか生き延びることができた私です。
官から民へ、子会社(警備会社)から親会社(大手流通業)へ、破綻から独立へ、と私の境遇は激変しました。今、振り返っても波瀾万丈としか言えません。
人生の転機で経験した理不尽な現実の中で、色々な人の「援護」と「ご縁」を得ながら、何とか道を踏み外さずに生きてきたのです。(援川聡)