「どうする家康」マメ知識
「伊賀越え」2つの説 家康が本当に通った道は
<歴史好きYouTuberの視点>

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梅雪と家康が別行動か

<堺の寺にも史料が...>

   ここまで見てもどちらでも可能性はありそうでしたが、ここで伊賀越えの出発点である堺の妙国寺に残る『治要録』を見てみましょう。

   『治要録』には、「家康公に客(商人)の体を為さしめ、大和路を経て、伊勢白子に至り、船を買い、遠州に入る。梅雪、洛に趣き、宇治田原において囲まれ死去す。」と記録してあります。つまり宇治田原ルートも大和ルートもどちらも本当で、宇治田ルートは梅雪が使い大和ルートは家康が使った。

   実は2人は別行動していた、というわけです。確かにこれが本当だったとしたら、各地どちらのルートにも感状の写しが見つかっているのにも説明がつきます。

   しかし、この『治要録』は一次史料や二次史料ではありません。

   一次史料の家康家臣が書いた『家忠日記』には、「穴山者腹切候」と書いてあるのですが、この史料でもどちらのルートで死んでしまったのかは明確に書かれていません。

   『三河物語』では「家康へ付奉りて、のき給ハバ、何のさおひもあるまじきに、付奉らせ給ハさるこそ不運成、」と家康を信用して付いて行けば良かったのにと書いてあるので、家康と別行動していたことは確実なようです。

   結局、穴山梅雪がどこでどう死んだのかは明確にはわかりません。

   しかし、どこで死んだにせよ穴山梅雪を失った後の穴山衆が、すんなり家康に吸収されたのは事実なので、もしかしたら...穴山衆を早く帰属させるために不都合なことを家康が隠した結果、さまざまな情報が錯綜してしまったのかもしれませんね...。

   本当に梅雪が自ら切腹したのか、家康の策略だったのか...真実を知っていたのは家康や半蔵だけなのかもしれません。

   さて、今回の記事はここまで。

   ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!

   (追記:参考文献など)今回の参考文献は、『本能寺の変 神君伊賀越えの真相 家康は大和を越えた』(上島秀友著、奈良新聞社)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。 <第29回『伊賀を越えろ!』服部半蔵は本当に役に立っていなかったのか?>は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください。


++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2023年春には登録者数が15万人を超えた。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。

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