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「どうする家康」マメ知識
「伊賀越え」2つの説 家康が本当に通った道は
<歴史好きYouTuberの視点>

   NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回8月6日(2023年)放送回は「第30回 新たなる覇者」です。登録者数15万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)

  • 歴史解説YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」提供
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大河では「宇治田原ルート」

   いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。

   今回は、ドラマ内でも盛り上がった徳川家康の生涯最大のピンチ「神君伊賀越えの謎」についてです。家康が通ったと言われていた通説の伊賀越えルートは、近年では別のルートを通ったのではないかとも言われておりまして、本当に謎だらけなんですね。

   それでは、最近出てきたその新ルートも紹介しながら話していきたいと思います!

<通説ルートと新説ルート>

   まず通説の伊賀越えのルート。堺から山城の宇治田原を通り、甲賀の信楽を抜け、伊勢湾から海を渡って、三河の岡崎の方へ無事に逃げたと言われるのが通説の「宇治田原ルート」です。このルートは、太田牛一が記した『信長公記』や大久保忠世の孫である石川忠総が書いた『石川忠総留書』からわかります。

   石川忠総の父・忠隣は家康の伊賀越えに同行していたので、信憑性は非常に高いと思われます。また、和田定教という武将が甲賀を案内したことについて家康から感状を受け取ったらしく、その感状の写しと思われるものが現存しています。

   「どうする家康」で家康が通ったルートが、この宇治田原ルートなんですね。しかし近年、この宇治田原ルートが違うんじゃないか、大和の方行ったんじゃないかという「大和ルート」説も出てきているんです。

   大和ルートでも、伊賀には入っていることは間違いないので。伊賀越えは伊賀越えであっています。けれども、果たして堺から宇治田原を通って伊賀に入ったのか、堺から大和を通って伊賀に入ったのかで意見が割れているようです。

   この新しい大和ルートは、大量の二次史料をつなぎ合わせた推察で提唱されるようになりました。江戸時代初期に成立した『当代記』には、家康公と共にしていた穴山梅雪が大和で死んだと記録が残っており、また1660年につくられた『石川正西見聞集』にも「堺より大和路へ御出、伊賀声なされ候」と書いてありました。

   さらに『寛政重修諸家譜』や榊原康政の孫が記した『御当家記念録』、大和国の道案内したことに対する感状の写しなど、さまざまな史料が発見されていて、大和ルートの信憑性を高めています。

<服部半蔵の動きは?>

   伊賀越えと言えば...「どうする家康」で山田孝之さん演じる服部半蔵、忍者ですよね!服部半蔵の動きや証言を見て、さらに伊賀越えルートについて深堀していきましょう。

   『寛政重修諸家譜』では、半蔵が没した後の服部家が「伊賀は正成が本国たるにより、仰をうけたまはりて嚮導したてまつる。」と述べたと書いてあります。つまり、伊賀は服部家の故郷なので案内したとはハッキリ書いてあるのですが、その伊賀に来るまでにどの道で来たかは記述されていないのです。

   また、成立年がわかっていない『伊賀之者御由緒之覚書』には、「大和の内にて一揆共に取り籠まれ、穴山殿は討たれ申され候、」と記してありました。家康と一緒にいたとされていた梅雪が大和で討たれたとここでも書いてあるということは、やはり大和ルートの方が可能性は高いのではないかと思わされますね。

梅雪と家康が別行動か

<堺の寺にも史料が...>

   ここまで見てもどちらでも可能性はありそうでしたが、ここで伊賀越えの出発点である堺の妙国寺に残る『治要録』を見てみましょう。

   『治要録』には、「家康公に客(商人)の体を為さしめ、大和路を経て、伊勢白子に至り、船を買い、遠州に入る。梅雪、洛に趣き、宇治田原において囲まれ死去す。」と記録してあります。つまり宇治田原ルートも大和ルートもどちらも本当で、宇治田ルートは梅雪が使い大和ルートは家康が使った。

   実は2人は別行動していた、というわけです。確かにこれが本当だったとしたら、各地どちらのルートにも感状の写しが見つかっているのにも説明がつきます。

   しかし、この『治要録』は一次史料や二次史料ではありません。

   一次史料の家康家臣が書いた『家忠日記』には、「穴山者腹切候」と書いてあるのですが、この史料でもどちらのルートで死んでしまったのかは明確に書かれていません。

   『三河物語』では「家康へ付奉りて、のき給ハバ、何のさおひもあるまじきに、付奉らせ給ハさるこそ不運成、」と家康を信用して付いて行けば良かったのにと書いてあるので、家康と別行動していたことは確実なようです。

   結局、穴山梅雪がどこでどう死んだのかは明確にはわかりません。

   しかし、どこで死んだにせよ穴山梅雪を失った後の穴山衆が、すんなり家康に吸収されたのは事実なので、もしかしたら...穴山衆を早く帰属させるために不都合なことを家康が隠した結果、さまざまな情報が錯綜してしまったのかもしれませんね...。

   本当に梅雪が自ら切腹したのか、家康の策略だったのか...真実を知っていたのは家康や半蔵だけなのかもしれません。

   さて、今回の記事はここまで。

   ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!

   (追記:参考文献など)今回の参考文献は、『本能寺の変 神君伊賀越えの真相 家康は大和を越えた』(上島秀友著、奈良新聞社)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。 <第29回『伊賀を越えろ!』服部半蔵は本当に役に立っていなかったのか?>は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください。


++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2023年春には登録者数が15万人を超えた。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。