最後は家康の下に逃げ
<信雄はその時何をしていたのか>
ここまで成功の多い信雄ですが、本能寺の変が起こっていたころ何をしていたのかと言うと、身動きが取れない状態にありました。四国攻めをする異母弟・神部信孝に多くの兵士を貸していたため、信長を救うことが叶わなかったのです。
信長も信忠も死んだことで、新しく織田家の跡継ぎを決める清洲会議が開かれましたが、ここで信雄と信孝は対立してしまい、その2人が時間を浪費している間に秀吉が三法師を当主に据えてしまいました。織田家家督代理という役職は与えられましたが、到底納得のいくものではありません。
そんな信雄が徳川に頼った結果起きたのが、小牧・長久手の戦いです。
しかし、信雄は頼ったのに家康が秀吉に勝てそうにないと悟るやいなや、1人勝手に秀吉に講和を持ちかけてしまいました。
この頃の行動が原因で、信雄はさらに悪評を広めてしまったのでしょう。
さらに小田原征伐の後には、秀吉によって織田家の領地から三河に転封されそうになり、これに反対したらなんと信雄は大名の座から追放されてしまいました(秀吉が鬼に見えますね...)。一応、秀吉の御伽衆として仕事を与えられはしましたが信雄にとっては屈辱に感じたことでしょう。
しかし、屈辱に耐えて得た仕事も、関ヶ原の戦いにて信雄の息子である秀雄が西軍についたため、信雄はまた全てを失ってしまいました。
さらに信雄の不運は続きます。
信雄が全てを失い大坂に住んでいた頃、大坂の陣が起ころうとしていました。そして、なんとこの大坂方の総大将に、信雄は周囲から推薦されてしまったのです。この周囲の雰囲気を感じ取った信雄は迷うことなく、家康の下に逃げ、匿ってもらうことで窮地を脱しました。
ここまで見てきた信雄の緩やかな転落人生も、最後の最後には家康から五万石を与えられているのであながち間違っていなかったのかもしれませんね...。「逃げるは恥だが役に立つ」とは、信雄のことを表しているかのようです。
さて、今回の記事はここまで。
ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!
(追記:参考文献など)今回の参考文献は、『織田信長家臣人名辞典』(谷口克広著、吉川弘文館)『天正伊賀の乱 信長を本気にさせた伊賀衆の意地』(谷口克広著、中公新書)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。
<第28回『本能寺の変』ふたりの恋。本能寺が変になるのは大河ドラマの伝統です。>は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください。
++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2023年春には登録者数が15万人を超えた。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。