NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回7月30日(2023年)放送回は「第29回 伊賀を越えろ!」です。登録者数15万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)
名前がコロコロと変わる
いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。
今回は、あまり評判を聞かない織田信長の息子・織田信雄について解説していきましょう。私は信雄を尊敬してはいませんが、とても推していますので、「こういう人物が実際にいたんだ」と思って頂ければと思います。
<偉大な父の息子として>
一次史料が無いためはっきりとはしていませんが、母は、兄の信忠そして五徳と同母である生駒氏と考えられています。
幼名は「茶筅」。兄である信忠も「奇妙」と、信長は自分の子に変な名前をつけることでよく知られていますよね。
大人になってからは通称「三介」と呼ばれていました。織田家は代々「三郎」なので、似てはいますが少しズラして通称がついたようです。兄の信忠も三郎ではなく「勘九郎」と呼ばれていました。もしかしたら、正室はあくまで濃姫だったので、そこに配慮して、側室の子である2人には名乗らせなかったのかもしれません。
そして、信雄は名前がコロコロと変わっており、具豊(ともとよ)・信意(のぶおき)・信勝(のぶかつ)と変遷しています。これは後の信雄の人生が理由です。
<信長の駒として>
信雄は当時の人からも見下げられていたようで、織田信長や豊臣秀吉とも直接会ったことのある宣教師のフロイスには「知恵が劣っている」なんて酷いことも書かれてしまっています。
しかし、最前線でないにしても信雄は立派な戦歴を持っていました。伊勢長島一向一揆・雑賀攻め・播磨神吉城の戦い・大坂本願寺・有岡城の戦いに参戦しています。何も出来なかったわけではなく、最低限の行動はしていたようでした。
信雄は、南北朝時代に活躍した北畠顕能の家系である北畠氏に養子入りしていたことがあります。北畠氏は、従っていた南朝が滅びたあとも伊勢国司として伊勢と伊賀の一部を支配していた特殊な名門でした。戦国時代にも朝廷にしっかり官位は与えられていたので、勝手に名乗っていたわけではないようです。
永禄12(1569)年に信長が上洛しようとした時、当時の北畠当主であった北畠具教と諍(いさか)いが起きてしまいます。諍いは大きくなる一方で、信長は北畠氏の大河内城攻めを行いますが、この城はなかなかに堅牢でした。
そのため信長は具教と話し合い、なんと北畠の跡継ぎを信雄(当時は茶筅)にすることで決着をつけさせました。具教はもちろん納得はしなかったと思いますが、渋々自分の息子である具房の養子として信雄をむかえることを約束したようです。
こうして天正4(1576)年、養子入りから7年後、なんと信雄(当時は具豊)が具教を誅殺し、北畠乗っ取りを遂行してしまうのでした。この頃の信雄は「左近衛権中将」という役職が与えられており「北畠中将」と呼ばれています。一時は兄の信忠よりも官位が上だったようで、いかに北畠氏が名門だったのかわかりますね。
ここまで上手くいっていた信雄でしたが、天正7(1579)年の第一次天正伊賀の乱でついに大失敗をしてしまいます。
『信長公記』の中にも、この時の信長の遺責状(お叱りの文)が記述してあり、「他の国でも向かわなければいけない戦があったのに、面倒くさがって手近な土地の戦に手を出すから失敗したんだ!」と怒られてしまったのです。
しかし、最後には信雄をフォローするような文も書いてあるので、信長は信雄のことを見限ったわけではないようでした。
そして次の第二次天正伊賀の乱では、総大将として信雄は出陣し、そして平定に成功しています。