部屋に金銀あふれる
<お金には目がなかった秀長>
秀長は、統治にもなかなかに優れていました。
寺社勢力が支配する大和国(奈良県の辺り)を治めるために、秀長は僧兵を恐れることなく武器を取り上げたり、また座の解体をしたりして、強気に寺社勢力を武力面でも財力面でも押さえつけました。
しかし鞭ばかりではありません。春日大社を守るために修繕を命じたり、また大和国の職人たちと友好関係を築き、後に大阪城や聚楽第を建てるための築城術を自分のものにしていきました。
ここまでは称える内容ばかりでしたが、一方で秀長は蓄財に熱心...つまりお金にがめつい顔も持っていました。
『川角太閤記』では、九州攻めで島津と戦う時にも仲間に食料であるコメを売りつけていたり、また『多聞院日記』では、秀長が命じたかはわかっていませんが、木材の売り上げを着服していたことがあったそうです。そして秀長が死んだ時には、部屋に金銀があふれるほどだったと言います。
<秀長の最期>
秀長の最期は少し寂しいものでした。
秀長は小田原攻めの前に病にかかり、小田原には出陣できませんでした。男の跡継ぎがいなかったため、14歳の甥っ子・秀保を幼い自分の娘と結婚させ、なんとか後を継げるように準備します。
そして回復することなく、天正12年、秀長は享年52で病死してしまうのでした。
しかし、秀保は文禄4年に18歳で疱瘡にかかり亡くなってしまったため、秀長の血脈は絶たれてしまいます。
秀長が培った築城術は部下であった高名な武士・藤堂高虎が引き継ぎ、やがて江戸時代を形作っていくことになるのでした。
さて、今回の記事はここまで。
ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!
(追記:参考文献など)今回の参考文献は、『織田信長家臣人名辞典』(谷口克広著、吉川弘文館)『羽柴を名乗った人々』(黒田基樹著、角川選書)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。
<第27回『安土城の決闘』なぜ信長はあそこまで怒ったのか?光秀が不憫すぎてもはや可愛い。>は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください。
++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2023年春には登録者数が15万人を超えた。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。