「どうする家康」マメ知識
秀吉の右腕・羽柴秀長 有能だがカネにうるさい 
<歴史好きYouTuberの視点>

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   NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回7月23日(2023年)放送回は「第28回 本能寺の変」です。登録者数15万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)

  • 歴史解説YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」提供
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「長秀」から「秀長」に

   いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。

   今回は、秀吉の右腕とも評される羽柴秀長についてです!非常に有能な人物で、この人がもっと長生きしていたら秀吉の暴走を止められたのでは?とも言われます。

   しかし、この秀長は意外とがめついところもあるようです...。

<豊臣に連なる者>

   秀吉と共に出世していった秀長は、最初は木下小一郎と名乗っていました。秀吉とは非常に仲が良かったとされています。

   2人の実母は、やがて大政所になることで知られている仲(なか)です。実父が違うとも言われているそうですが、秀吉は若い頃を語りたがらなかったので詳細の記録は残っておりません。

   やがて羽柴を名乗るようになります。この頃は秀長ではなく、信長の「長」と秀吉の「秀」をもらって「長秀」と名乗っていました。しかし、信長が本能寺で横死した約1年後には「秀長」に偏諱(へんき)し直しています。なかなかに切り替えが早いですね...。

   ちなみに「豊臣」は天皇がわざわざ秀吉のために作った、源平藤橘と同じ扱いである姓。「豊臣」は名字ではないのです。もともと貴族や武士は、源平藤橘のいずれかを名乗っていたことが多かったのです。が、皆が同じ姓を扱うとややこしくなってしまうため、各貴族や武士たちがそれぞれ住む土地の名前や特徴で呼び始めたのが「名字」です。現代人にはわかりづらいですね。

   天皇がわざわざ新しく、しかも「豊臣」ととても縁起の良い姓を作るとは、当時の羽柴一門の影響力がいかにすごかったかが感じられます。

<実力を備えた右腕>

   秀長は、従二位・権大納言を与えられていました。この位は上から3番目であり、武士としてだけではなく、普通の貴族としてもとんでもなくすごいことです。

   序列は朝日姫と婚姻関係にあった家康の次ですが、前田利家や伊達政宗、毛利輝元よりももちろん高位です。

   秀長がこれだけ高い位につけたのはもちろん、秀吉の弟だったからだけではありません。秀吉の名代として伊勢一向一揆で先陣を務め、鳥取城攻めの総大将もこなす戦歴があったからでもあります。

   明智光秀を討った山崎の戦い、柴田勝家に勝った賤ヶ岳の戦い、家康と戦った小牧・長久手の戦い、紀州攻めにも参戦し、紀州攻めの後には73万石を与えられています。長宗我部元親との戦いでも秀吉の代わりに総大将を務めあげ、九州攻めにも出陣しています。

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