「どうする家康」マメ知識
温和で慕われた於愛 悲しみと慈しみの人生
<歴史好きYouTuberの視点>

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   NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回7月2日(2023年)放送回は「第25回 はるかに遠い夢」です。登録者数15万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)

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定説の築山殿とは正反対

   いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。今回は、ついに登場した於愛の方について。

   広瀬アリスさんがとても素敵でしたね!

   女性なのでやはり記録が少ないのですが、わかっていることを解説していきたいと思います。

〈周りの多くの男性が命を落とした〉

   於愛は明るい性格なのでそうとは見えませんが、結構な波乱の人生を送っていました。

   まず、実家の家族をほとんど亡くしています。実の父・戸塚忠清は今川家臣だったのですが戦死しており、また戸塚家のあとを継いだ実の兄・忠家も戦で帰らぬ人になりました。さらに於愛は、母方の実家である西郷家の義勝(於愛にとってはいとこにあたる)と結婚していましたが、その義勝までもが戦死してしまっています。

   於愛の周りでは、多くの男性が亡くなってしまっていたんですね。

   家康に嫁ぐ前に於愛は義勝と子をもうけていて、そのまま母方の祖父・西郷正勝に世話になっていたようです。

   しかし、まさかのまさかで正勝も命を落としてしまいました。

   そうして次々と身内を失うなか、酒井忠次の妹婿でもある於愛にとっての伯父・西郷清員の養女になってから、家康と結婚しました。

   『どうする家康』では長篠の戦いの後にすぐに出会っていますが、史料には天正6(1578)年に家康の妻になったと書かれています。

   なぜ結婚して西郷家に嫁いでいたのに、わざわざ西郷家の養女になったのか? このあたりの事情はよくわかっていませんが、家康が身分を気にして、徳川家臣の陪臣の妻にしたのかもしれません。

〈慈愛の於愛の方〉

   於愛は、天正7(1579)年4月にあの徳川秀忠を、そして天正8(1580)年9月には松平忠吉を産んでいます。築山殿の信康・亀姫と同じように年子ですね。

   それにしても、家康はすぐに子作りは成功しますが、1人の女性に3人以上産ませないようです。於愛は、17~27歳の間に産んだと言われているので、まだまだ子作り出来そうではあるのですが...。信康事件直前のこの出産を、築山殿は認めていなかったのではないかと私は思っています。

   また、於愛は温和で誠実な人柄だったと言われており、定説の築山殿とは正反対なイメージです。

   『どうする家康』でも取り入れられていた視力が悪いという設定は、史料にも書いてあることで、瞽女(目の悪い女性)を庇護していたらしいのです。

   於愛の息子である2代目・秀忠も、幕府の公式記録でもある『徳川実紀』に「仁柔に過ぎる」と書かれています。兄である信康や秀康は割と荒々しい性格だったようなので、秀忠の人柄は於愛の気質を受け継いだものなのかもしれませんね。

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