映画監督あきらめテレビ界に 人生一大転換のきっかけは「テレビ三面記事ウィークエンダー」だった

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   私は1972年春から76年まで、東京大学の学生でした。その頃から、映画が好きで、よく渋谷あたりのB級映画館やテレビで見ていました。

   卒業後は大手映画会社に就職したかったのですが、どこも助監督の採用はありませんでした。

   そんな中で、1975年のある土曜日の夜、自宅のアパートで日本テレビを見ていると、何とも言えない奇妙な感じがする番組を放送していました。

   それは「テレビ三面記事ウィークエンダー」という生放送番組で、泥臭いことをやりながら、切れが良く、番組全体の体裁もセットもタイトルのグラフィックもカッコイイのです。

   この番組を制作したのは、本コラムでも何回か紹介した細野邦彦氏でした。私は、映画がやれないことで自分がやるべきなのは、この番組のコンセプトだと思ったのです。

   今考えると、私の人生にとっての一大転換でした。

  • 東京・汐留の日本テレビタワー
    東京・汐留の日本テレビタワー
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細野プロデューサーに指示された「伝票の処理」

   卒業後、何とか日本テレビに入社した私は、細野チーフプロデューサーの班に入りました。前述した、「テレビ三面記事ウィークエンダーは、泥臭いことをやりながら、切れ味が良く、番組全体の体裁も、セットもタイトルのグラフィックも、カッコイイのです」と私が言うと、細野氏は頷きました。このコンセプトは、私の番組作りの糧(かて)となったのです。

   入ってすぐ、細野氏にこう言われました。

「電鉄会社の新入社員は、まず駅の改札口の切符切りから始めるのだから、君も1年くらいは番組の伝票の処理をやりなさい」

   最初は他の制作に入った同期が制作現場に入っていくのを見ると羨ましかったのですが、1年たってみると、伝票の処理をやったことで、番組の成り立ちというものがよくわかりました。

   「テレビ三面記事ウィークエンダー」は、1975年から1984年に放送された中で、最高世帯視聴率が36.4%でした。私はこの番組の取材員兼ADとして育ちました。細野氏の口癖は「他人が、やらないことをやる」で、これは、今でも私の心に強く残っています。

   その後の人生は、「TVジョッキー」「スーパーJOCKEY」(この2番組共、細野氏の番組)、「マジカル頭脳パワー!!」「THE夜もヒッパレ」「24時間テレビ」等を担当したのです。このときのエピソードは、本コラムにも取り上げました。

   細野氏は、惜しくも一昨年他界しましたが、私が今日あるのは、細野氏と、本コラムに何度も登場している日本テレビで会長等を歴任した氏家斉一郎氏です。

   細野さん、氏家さん、本当にありがとうございました。

渡辺弘(わたなべ ひろし)
渡辺 弘(わたなべ ひろし)
1952年生まれ。東京大経済学部卒業。1976年に日本テレビに入社し、制作局CP、ドラマ制作部長として番組づくりの現場で活躍。編成局長、制作局長、取締役報道局長、常務・専務を歴任した。「マジカル頭脳パワー!!」「THE夜もヒッパレ」「「スーパーJOCKEY」「24時間テレビ」などヒット番組をプロデュースした。 現在は「情報経営イノベーション専門職大学」客員教授。映像会社「2501」顧問。
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