NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回6月4日(2023年)放送回は「第21回 長篠を救え!」です。登録者数15万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)
築山殿と家康との夫婦関係が「完全に冷えきった」であろう事件
いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。
『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。
さて、今回は家康にとって最大の悲劇とも言える「信康事件の真相」について深堀りしていきたいと思います。
この大事件は単に、家康と信康の不仲からおきた出来事ではありません。
この事件にいたるまでの流れを、浜松衆と岡崎衆の対立のきっかけとなった「大岡弥四郎事件」から順に追っていきましょう。
<天正3年(1575年)>
「大岡弥四郎事件」は、長篠の戦い直前におきたと言われています。
大岡弥四郎なる人物が勝頼を岡崎へ引き入れようとした事件です。
武田との戦いが続いており情勢が非常に不安定な中での裏切りだったことから、この裏切りは
徳川にとって血の気が引くような出来事でした。
そのことから、大岡弥四郎本人は竹鋸、妻子5人も磔になるというとても重い罰を与えられました。この時、信康は17歳だったので事件とはあまり関係無かったとされましたが、しかしなんとその母・築山殿は首謀者の嫌疑をかけられました。
大岡弥四郎伝いで武田の歩き巫女が築山殿に対して調略を仕掛け、それにまんまと築山殿は乗ってしまったというのです。
岡崎衆全員が徳川を裏切ったわけではなかったとは思いますが、この裏切りで、築山殿と家康との夫婦関係は完全に冷えきってしまったことでしょう...
この夫婦関係は信康の跡継ぎ問題に発展していきます。
<天正6年(1578)>
五徳姫と結婚したことで信康にとって信長は義父という関係になりました。
信康と家康の関係も決して悪くはなく、浜松へ挨拶に行ったり、2人で共に遠江小山攻めをしました。
しかし一方で、家康は岡崎衆へ在郷無用の命令(城に籠らず積極的に城の外へ攻撃に出る)を出しています。
単に武田への攻撃を強化するための命令なのか、岡崎と浜松のわだかまりからの牽制なのかは明確にはわかりません。
しかしこの頃は、武田との小競り合いが幾度も行われていますので、家康が岡崎城で守りを固めるよりも城から出て戦うように促したことは、岡崎衆を城から追い出すためなどではなく自然な流れと言えます。
また家康と信康は共に高天神城攻めを行っていることからも、家康が信康を全く信用していなかったとは言えません。