「どうする家康」マメ知識
地味?実は興味深い「六角氏」 一族の歴史と信長時代に起きたコト
<歴史好きYouTuberの視点>

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   NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回5月14日(2023年)放送回は「第18回 真・三方ヶ原合戦」です。登録者数15万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)

  • 歴史解説YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」提供
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当主の座が次々と移ったワケ

   いや?乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。

   『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。

   さて、歴代の大河でもなんとなくスルーされてしまっている六角氏を今回は解説していきたいと思います。

   六角氏はもともと、近江国の佐々木荘で繁栄していた宇多源氏が始まりでした。

   平治の乱で平氏に近江国を追われた、その佐々木氏の秀義が、その後に、頼朝の下に馳せ参じたのは去年の『鎌倉殿の13人』でも描かれましたね。

   その秀義のひ孫の1人であった泰綱が六角氏の祖になります。 また、この泰綱の弟の氏信は京極の祖にあたります。

   南北朝時代になると、六角氏頼が当主となり足利尊氏側の北朝に味方したことで、北畠顕家と戦うことになり、その戦いで観音寺城を顕家に落城されてしまいました。

   戦況が良い方へ向かいまた観音寺城に戻ることは出来ましたが、観応の擾乱が起きたことでまたもや落城します。

   しかし足利尊氏が勝利したことで今度も観音寺城に戻ることが出来ました。

   この六角氏は、山の上にあり難攻不落そうに見える観音寺城をこの後にも何回も落城されては取り返していきます。

   室町時代には、六角持綱がまず当主になりますが、なんとその実の弟・時綱が持綱を自害させ力ずくで当主になりました。

   しかし、幕府はそのような乱暴な実力行使は許さず、今度は時綱を自害させ、さらに下の弟の久頼を当主に据えました。

   すると今度は、久頼がなぜか自害してしまい、時綱のその息子・政堯が当主に。

   しかし、政堯は、守護代の伊庭氏の子を殺害するという大問題を起こし、久頼のその息子・高頼にまたまた当主の座は移り、そのまま応仁の乱へと突入していきます。

   高頼は山名宗全の西軍に味方し、逆に当主の座を追われた政堯は細川勝元の東軍へと味方し、そして六角氏の当主と対抗するように京極氏も東軍についてしまいます。

   この応仁の乱でも観音寺城は2回落城してしまいました。

   これほどまでに落城しやすいのは六角氏にとっての最終防衛ラインは伊賀甲賀の山側であったため、たとえ観音寺城が落城したとしても戦う手立てがあったからだと考えられます。

   この頃から六角氏は幕府に通さず勝手に家臣に領地を分配し出しました。この行為を幕府はもちろん許さず、足利義尚を大将にして第一次六角征伐が行われました。

   しかし、ここで伊賀忍者・甲賀忍者が活躍したことで、六角氏は滅びることなく、また伊賀甲賀の知名度は全国に知られることとなりました。

   義尚が病死したことで一次六角征伐は幕を閉じましたが、すぐに将軍・足利義稙は第二次六角征伐を始めます。

   ...なのですが、ここで六角氏にとって運の良いことに京で細川政元によって明応の政変が起きます。このおかげで六角氏は幕府を敵にしながらも生き残ることが出来たのでした。

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