NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回5月7日(2023年)放送回は「第17回 三方ヶ原合戦」です。登録者数15万人を突破した人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)
戦力差は?
いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。
『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。
さて、『どうする家康』でもそろそろ三方ヶ原の戦いが近づいて参りました。
なぜこの戦いで家康は大敗してしまったのか?
今回はそこを解説していきたいと思います。
徳川織田連合軍・武田軍両軍の戦力差はいかほどのものだったのでしょうか?
武田軍は、北条と再同盟を果たし援軍を得たことで、2万を超える戦力でした。
しかも家臣たちは武勇を持つ今でも有名なものたちばかりで、小山田信茂・山県昌景・武田勝頼・穴山信君・内藤昌秀・春日虎綱・原昌胤・馬場信春・甘利信康・土屋昌続・小幡信真などが参戦していました。
一人ひとりが大きな所領を持つ勇猛果敢な武将たちです。
対して徳川軍はというと、部隊長は石川数正と酒井忠次。
さらに勇猛果敢な本多忠勝・榊原康政など参戦しています。
織田軍からは家康の叔父である水野信元や「退き佐久間」で有名な佐久間信盛、信長の世話役だった平手政秀の孫である平手汎秀などが加わっていました。
徳川軍にももちろん優秀な武将がそろってはいましたが、戦力はなんと1万1000人余り...
家康本隊が8000人だったのも少ないのですが、織田軍の援軍も3000人ほどしかいませんでした。
これは当時、浅井・朝倉などを始めとして、信長に敵が多く存在してしまったためでしょう。
それでは実際に両軍がぶつかった時の状況はどうなっていたのでしょうか。
徳川軍は鶴翼の陣をもって横に広がるように広範囲を使って武田軍と対峙しようとしました。
しかしそれに対して信玄は、魚鱗の陣で守りを固くしたことで、広がって戦っている徳川軍より優位に戦っています。
戦力差もあったので家康は相当な苦戦を強いられたことでしょう。
しかし徳川方も善戦しています。
赤備えの山県昌景を本多忠勝や榊原康政が打ち破っていたり、また信玄の本陣にも随分切り込めていたりしたようです。
『三河物語』にはもちろん、武田側の史料『甲陽軍鑑』にも、徳川家臣の鳥居四郎左衛門を信玄の側近である土屋昌続が討ち取っていることが記述されています。
しかし、先程も述べたように鶴翼の陣の裏をかいたり、また小荷駄隊であった甘利信康を急遽横槍に使ったりするなど、信玄は常に家康より1枚上手でした。
最後には徳川軍は武田軍に大きく分断されてしまい、家康は命からがら逃げ延びました。
しかし、徳川もそのままでは終わらせませんでした。
大久保忠世が犀ヶ崖で夜営していた武田に対して夜討ちをしかけたのです。
地の利が忠世側にあったこともさながら夜だったことも相まって、武田軍は相当の損害を受けたのでした。