「3代に渡る同盟」ではなかったが...
では朝倉との関係はどうだったのでしょうか?
『浅井三代記』や『朝倉始末記』などの史料から、定説では亮政が朝倉宗滴から援助を受けていたと思われていました。
しかし、この2つの史料はあくまでも軍記物語であり、確定的な一次史料ではありません。
そして今度は『朝倉家伝記』という信用度の高い1級史料が発見されたことで、宗滴が亮政に対して攻撃をしていたことがわかり、六角氏から感謝の手紙を宗滴がもらっていたことも判明しました。
それでは浅井・朝倉に同盟関係は全くなかったのか?というと、それは違います。
金ヶ崎の戦いの前には確かに同盟関係があったようです。
長政の代に外交を取り締まっていたのは父・久政で、そして久政は朝倉義景と連絡を取るほどの仲だったのです。
また、金ヶ崎の戦いの翌月に朝倉義景を浅井長政が「御館さま」と呼んでいたことがわかっています。
浅井家が朝倉家のピンチに対していきなり、しかもかなりのリスクを負って臣従することは考えられないので、金ヶ崎の戦いの前から浅井・朝倉に同盟関係はあったと考えることは至極当然なのかもしれません。
それではなぜ『どうする家康』で、信長は浅井の裏切りを予見出来なかったのでしょうか?
ここからは私の考察になってしまうのですが、それは浅井長政と朝倉義景の関係を知らなかったからでは?と考えています。
織田家中にも浅井は完全に信長の部下であるという認識が強く広まっていたようです。
その認識もあったからなのか、まさか浅井が朝倉に通じており、しかも反旗を翻すなどとは信長もおもっていなかったのでしょう。
信長は部下に裏切られることが多かったようですが、長政もそのうちの1人だったのでした...。浅井・朝倉は、3代に渡る同盟ではなかったのですが、金ヶ崎の頃には堅固な関係が確かに作られていたのですね!
さて、今回の記事はここまで。
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(追記:参考文献など)今回の参考文献は、『浅井長政と姉川合戦: その繁栄と滅亡への軌跡』(太田浩司著、淡海文庫)や『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(黒田基樹著、朝日新書)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。
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++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2023年1月には登録者数が14万人を超えた。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。