NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回4月30日(2023年)放送回は「第16回 信玄を怒らせるな」です。登録者数約15万人の人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)
長政の祖父と近江の関係
いや〜乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。
『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。
さて、先週の『どうする家康』では姉川の戦いがしっかり描かれていましたね。
家康が浅井・朝倉に寝返るのかどうか、歴史の展開を知っている身ながらハラハラしました。
しかし、最近の研究から「浅井・朝倉に同盟関係はなかった」と、そう言われる方が多いらしいです。
どうしてそう言われるようになったのでしょうか?
今回は「浅井・朝倉に同盟関係はなかったのか?」について深堀していきたいと思います!
浅井家は浅井長政の祖父・亮政の代から大きくなっていきます。
近江守護の京極氏に仕えており、近江の南にいた六角氏と近江をかけて戦っていました。
しかし1542年、久政の代になると今度は一転して六角氏と手を結びます。
近江守護であろうとも京極氏の支配力が低下したためであると考えられていて、この時長政は六角義賢から偏諱を受けて「賢政」と名乗っていました。
浅井に裏切られた後の京極氏がどうなったのかは明確にはわかっていません。静かに滅亡していってしまったのかもしれませんね...
1560年、ついに長政の代になると今度は六角氏を裏切ります。
祖父の代の対立構造に戻ったわけです。しかし京極氏のような大きな後ろ盾はありません。
そこで、1561年織田信長と同盟を結んだのではと従来では言われてきたのでした。
一次史料はありませんでしたが、織田信長は美濃の一色氏と戦っており、その一色氏と六角氏は同盟を結んでおり、それならば利害の一致で長政と信長が手を結んでいるだろうと考えられてきました。
しかし、この定説は和田惟政の手紙によって退けられ、正しくは1567年であったと判明しました。
長政と信長は確かに同盟関係はあったのですが、それは長政の代になってすぐのことではなかったのです。