光秀は天下を狙っていたのか?
戦後以前は上記の説とは様相が少し違っています。
高柳光寿は、光秀を「合理主義者+野心家」だったとし、天下への野心があったからこそ邪魔な上司である信長に反旗を翻したのだと論じました。
しかし小泉策太郎や山路愛山は、斎藤道三や武田信玄、さらには豊臣秀吉や徳川家康などを取り上げ、主君殺しを例に出し光秀を悪人とするのであればこの人物たちもまた悪人であるはずだと主張しました。
何故ここまで光秀が悪人だと多くの人から認識されていたかというと、明治時代に『古今善悪見立一覧』なる物が流行ったからだとされています。
これは善人と悪人を分けて人物を紹介する物だったのですが、江戸時代の名残で儒教の影響がまだまだ大きかった明治では、本能寺の変で主君殺しをした光秀はもちろん悪人側として描かれました。
一度そのように印象付ける媒体が流行ると、なかなか印象は変えられないものです。
また、かの有名な徳富蘇峰は、『突発的犯行説』を推しました。
光秀が天下を取るには、強大すぎる織田信長を殺さねばなりません。
そしてその信長を唯一討ち取れるかもしれないチャンスが目の前に現れた、それが本能寺の変だった。
光秀は正義感から信長を倒したのではなく、ただただ魔が差してつい殺してしまっただけだという説です。