信玄の態度急変のワケ
信玄の状況が好転したのは、「相模の獅子」とも謳われた氏康が病死したからでした。
そのあとを継いだ氏政は上杉と手を切り、なんとまた武田と手を結んだのです。
信玄も状況が好転するまでただ待っていただけではありません。
兵の大規模募集や、その志願者の税免除(棟別銭、人足普請、隠田非課税など)、また一時は硬直していた織田家との同盟関係を信忠と松姫の婚姻によって強化していきました。
しかし、そのように強化したにも関わらず信玄は態度を急変させ、元亀三年の年末に三方ヶ原の戦いを信玄は起こし、織田家と徳川家との対立を確信的なものにしてしまいました。
ここまで急に態度を変えたのも本願寺の顕如から信長攻めの依頼があったからだとか、飛騨侵攻が完了したからだとか、第六天魔王と名乗る信長の態度が気に食わなかったからだなどと様々に言われています。
信玄が家康の動向を注意しろと信長に送って無視をするということは何回かあったようで、そのようなこともあってか信玄にとっては織田と徳川への鬱憤はセット扱いだったようです。
『三ヶ年之鬱憤を散じる』とガチギレの信玄。信玄の密約破棄に始まった徳川と武田の亀裂は広まっていくばかりだったようです。
さて、今回の記事はここまで。
ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!
(追記:参考文献など)今回の参考文献は、『徳川家康と武田信玄』(平山優著、角川選書)や『武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(平山優著、PHP新書)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。
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++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2023年1月には登録者数が14万人を超えた。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。