NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回4月16日(2023年)放送回は「第14回 金ヶ崎でどうする!」です。登録者数14万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)
今川攻めの際のすれ違い
いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。
『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。
さて、今回は家康も漏らしてしまうほどに信玄の猛攻がすさまじかったという三方ヶ原の戦いが起きるまでについてです。
『しかみ像』はこの戦で死を覚悟した家康がなんとか逃げ延びたのち、自分への戒めとして負けた自分の姿を描かせたものだと、従来知られてきました(現在では、後世に描かれたものであるとする説が有力です)。
では、この有名な戦はなぜ起こってしまったのか?
少し時間を巻き戻して説明しましょう。
徳川家康と武田信玄が戦うことになったのは、永禄11年(1568年)の密約破りがきっかけだと言われています。
今川侵攻時、徳川軍と武田軍はほぼ同時期に今川領へ挟み撃ちをするような形で攻め込んでいました。
このまるで口裏を合わせたようなタイミングなどを考慮すると、一次史料はないものの家康と信玄が密約を交わしていた可能性はとても高かったと思われます。
信玄は他にも氏真が上手く政治を行えていなかった隙を見逃さず、今川家臣に対して寝返るよう働きかけるなど計略を事前にめぐらせていました。
その戦略によってか信玄は今川侵攻時に今川館をなんと7日間で陥落させてみせました。
そしてそのままの勢いで信玄は大井川を越えて今川領をどんどん占領していきましたが、これに怒ったのが、氏真の籠城した懸川城で苦戦を強いられていた家康でした。
実は家康と信玄で交わされた密約には、信玄が侵攻して良いのは大井川までだと「川切りの協定」が盛り込まれていたのです。
しかし信玄は「え?川って天竜川(大井川よりも西にあった川)だったんじゃなかったっけ?」とばかりに、そのまま侵攻を進めて行きました。
二次史料の『三河物語』だけでなく『甲陽軍鑑』(武田側の史料)にも「大井川までだった」と記されているので、密約を破ったのは信玄だと思われます。
このように駿河の支配領域の取り分で揉めたことによって、家康と信玄の仲は決裂していったのでした。