「どうする家康」マメ知識
家康の別妻(側室)押さえておくべき2人とは 強かった正妻パワーとの関係も解説
<歴史好きYouTuberの視点>

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   NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回4月16日(2023年)放送回(9日はお休み)は「第14回 金ヶ崎でどうする!」です。登録者数14万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)

  • 歴史解説YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」提供
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築山殿(ドラマでは瀬名)はドラマ1話から登場

   いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。

   『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。

   さて、今回は家康の正室・側室についてです。

   正室・側室という呼び方ですが、実は江戸時代から使われ始めたものであり、戦国時代においては正妻・別妻と呼んでいました。

   そして家康には死ぬまでになんと20人以上の正妻・別妻がいたことはご存知だったでしょうか?

   そして子供は16人と言われています。

   戦国武将として後継ぎを残さねばならなかったとしても多いなと感じてしまいました...

   今回は、その中でもおさえておくべき「妻」4人と子供たちを紹介いたします!

   家康には正妻が2人いました。

   1人目は、今年の大河『どうする家康』でも1話から登場した築山殿(ドラマ内では瀬名)です。

   築山殿は1559年に信康、1560年に亀姫を出産しました。

   亀姫はその後に奥平信昌に嫁ぎましたが、信康は家康と決裂してしまい、のちの「信康事件」のあと、そのまま切腹を命じられてしまいます。築山殿も信康と結託していたと判断されたために殺害されております。

   ちなみにこの信康と亀姫は、家康と築山殿が駿府にいた頃、つまり今川から独立する前の時期に立て続けに生まれていました。

   しかし、築山殿はその後からは一切子供を産んでいません。

   それは、築山殿が今川を裏切った家康を憎んでいたことから不仲になっていったからでは?とも言われていましたが、最近では今川方に築山殿が人質として捕らえられていたという事実はなかったのではないかとも言われていて、不仲だったから子供が生まれなかったという説にも疑問が生じてきています。

   それでも岡崎城と浜松城に別居していたことは事実ですので、何かしら2人の間に亀裂が生じるような出来事はあったのかもしれませんね...

2人目の正妻・朝日姫、そして別妻のうち2人

   そして2人目の正妻は1586年、築山殿が亡くなってからしばらくしてから結婚した朝日姫です。

   朝日姫は豊臣(当時は羽柴)秀吉の妹で、政略結婚の面が大きいと思われます。

   小牧・長久手の戦いの後に、家康の方から和睦として羽柴家の女性を娶りたいと頼み、朝日姫44歳・家康45歳で結婚しました。

   高齢のため子供はおらず、さらに朝日姫はしばらくして病気で亡くなってしまいます。家康との仲が良かったのかは現在もわかっておりません。

   しかし、秀吉の妹ですし家康は丁寧に扱われていたと考えられています。

   正妻の次は、別妻のうち押さえておくべき2人を取り上げようと思います。

   1人目は小督局です。お万という通称でも有名ですね!

   結城秀康を産んでおり、秀康は家康の次男にあたります。

   しかし皆さんご存知の通り、跡継ぎは秀忠ですね。

   なぜ秀康は選ばれなかったのか?

   それは築山殿が認知しなかったからではないかと最近では言われています。

   戦国武将は女性を好きに娶って好き放題子供を産ませていたのでは?と思っていた方もいらっしゃったかもしれませんが、実際には全くそんなことはないようです。

   最近の研究で、戦国武将の女性関係を正妻が強く統制していたとわかってきているのです。

   なので、女性関係の管理をしている正妻の承認を得ずに妊娠させてしまった場合、その子供は戦国武将の子供として扱われないことがあったようなんですね。

   これは嫉妬とは全く違い、戦国武将の妻として家を盛り立てていくためには必要なことだったと思います。

   家康の子供として認められない苦しい立場の秀康は、築山殿の死後に秀吉に人質になった後、鎌倉殿でも登場した結城朝光の結城家の養子となり、「結城秀康」になりました。

   一説には秀康は双子だったとも言われており、当時は双子を不吉の象徴として扱うこともあったので、そのことも秀康が不遇な目に合ったことの一因だったのかもしれません。

   そして2人目は、『どうする家康』でどのような役回りで登場するのかが一番気になる西郷局を紹介いたします。

   於愛とも呼ばれ、出自がやはりよくわかってはおりませんが、家康最愛の女性だったと伝えられています。

   その於愛が出産したのが秀忠であり、しかも産んだ年というのが1579年、つまり信康が死んだ年という何とも言えないタイミングでした。

   もちろん築山殿は認知していなかったでしょうが、そこは家康が強行して秀忠を跡継ぎにしたのでしょう。

   むしろ秀忠がいたことで、信康と築山殿は切り捨てられてしまったのかもしれません...

   長丸という幼名からも家康が秀忠を跡継ぎにしようとしていたことが伺えます。

   この1579年を『どうする家康』ではどう描かれるのか、私には全く想像できません。

   従来で悪女パターンの多い築山殿が今回は優しい女性として描かれているからこそ、於愛の方がどう描かれるのか...楽しみなような怖いような気がします。

   また翌年の1580年には於愛がまたも息子を産んでいます。

   同年には別の女性との間にも女の子をもうけていて、立て続けに3人生まれている点からも、女性関係を正妻が統制していた可能性を大きく感じますね。

信長と秀吉の場合は?

   織田信長も正妻の濃姫が早くに亡くなったからこそ子供がたくさん作れたとも考えられていたり、また秀吉に関してもねねが秀吉に対して信長の血を引く淀殿との間にしか子作りを認めなかったからこそ、極端に子供が生まれなかったのでは?と言われ始めたりしています。

   戦国武将だからと言って、妻には皆さん頭が上がらなかったのかもしれないですね...

   天下分け目の戦いを家康が制した関ケ原合戦以降も、家康の子作りは続いており、特に、義直・頼宣・頼房の3人は尾張藩・紀州藩・水戸藩で有名な『御三家』の始まりとなった人物たちです。

   戦国最後の大戦を知らない太平の世代の子供たちが御三家になっているのは、戦を知らなくて良い時代に生まれた子供たちに未来を託したいと家康が思ったからかもしれないですね。

   さて、今回の記事はここまで。

   ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!

(追記:参考文献など)今回の参考文献は、『家康の正妻 築山殿』(黒田基樹著、平凡社新書)や『徳川家康 人物叢書』(藤井讓治著、吉川弘文館)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。

<第13回解説動画は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください>


++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2023年1月には登録者数が14万人を超えた。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。

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