信長と秀吉の場合は?
織田信長も正妻の濃姫が早くに亡くなったからこそ子供がたくさん作れたとも考えられていたり、また秀吉に関してもねねが秀吉に対して信長の血を引く淀殿との間にしか子作りを認めなかったからこそ、極端に子供が生まれなかったのでは?と言われ始めたりしています。
戦国武将だからと言って、妻には皆さん頭が上がらなかったのかもしれないですね...
天下分け目の戦いを家康が制した関ケ原合戦以降も、家康の子作りは続いており、特に、義直・頼宣・頼房の3人は尾張藩・紀州藩・水戸藩で有名な『御三家』の始まりとなった人物たちです。
戦国最後の大戦を知らない太平の世代の子供たちが御三家になっているのは、戦を知らなくて良い時代に生まれた子供たちに未来を託したいと家康が思ったからかもしれないですね。
さて、今回の記事はここまで。
ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!
(追記:参考文献など)今回の参考文献は、『家康の正妻 築山殿』(黒田基樹著、平凡社新書)や『徳川家康 人物叢書』(藤井讓治著、吉川弘文館)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。
<第13回解説動画は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください>
++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2023年1月には登録者数が14万人を超えた。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。