2人目の正妻・朝日姫、そして別妻のうち2人
そして2人目の正妻は1586年、築山殿が亡くなってからしばらくしてから結婚した朝日姫です。
朝日姫は豊臣(当時は羽柴)秀吉の妹で、政略結婚の面が大きいと思われます。
小牧・長久手の戦いの後に、家康の方から和睦として羽柴家の女性を娶りたいと頼み、朝日姫44歳・家康45歳で結婚しました。
高齢のため子供はおらず、さらに朝日姫はしばらくして病気で亡くなってしまいます。家康との仲が良かったのかは現在もわかっておりません。
しかし、秀吉の妹ですし家康は丁寧に扱われていたと考えられています。
正妻の次は、別妻のうち押さえておくべき2人を取り上げようと思います。
1人目は小督局です。お万という通称でも有名ですね!
結城秀康を産んでおり、秀康は家康の次男にあたります。
しかし皆さんご存知の通り、跡継ぎは秀忠ですね。
なぜ秀康は選ばれなかったのか?
それは築山殿が認知しなかったからではないかと最近では言われています。
戦国武将は女性を好きに娶って好き放題子供を産ませていたのでは?と思っていた方もいらっしゃったかもしれませんが、実際には全くそんなことはないようです。
最近の研究で、戦国武将の女性関係を正妻が強く統制していたとわかってきているのです。
なので、女性関係の管理をしている正妻の承認を得ずに妊娠させてしまった場合、その子供は戦国武将の子供として扱われないことがあったようなんですね。
これは嫉妬とは全く違い、戦国武将の妻として家を盛り立てていくためには必要なことだったと思います。
家康の子供として認められない苦しい立場の秀康は、築山殿の死後に秀吉に人質になった後、鎌倉殿でも登場した結城朝光の結城家の養子となり、「結城秀康」になりました。
一説には秀康は双子だったとも言われており、当時は双子を不吉の象徴として扱うこともあったので、そのことも秀康が不遇な目に合ったことの一因だったのかもしれません。
そして2人目は、『どうする家康』でどのような役回りで登場するのかが一番気になる西郷局を紹介いたします。
於愛とも呼ばれ、出自がやはりよくわかってはおりませんが、家康最愛の女性だったと伝えられています。
その於愛が出産したのが秀忠であり、しかも産んだ年というのが1579年、つまり信康が死んだ年という何とも言えないタイミングでした。
もちろん築山殿は認知していなかったでしょうが、そこは家康が強行して秀忠を跡継ぎにしたのでしょう。
むしろ秀忠がいたことで、信康と築山殿は切り捨てられてしまったのかもしれません...
長丸という幼名からも家康が秀忠を跡継ぎにしようとしていたことが伺えます。
この1579年を『どうする家康』ではどう描かれるのか、私には全く想像できません。
従来で悪女パターンの多い築山殿が今回は優しい女性として描かれているからこそ、於愛の方がどう描かれるのか...楽しみなような怖いような気がします。
また翌年の1580年には於愛がまたも息子を産んでいます。
同年には別の女性との間にも女の子をもうけていて、立て続けに3人生まれている点からも、女性関係を正妻が統制していた可能性を大きく感じますね。