武田を倒すために...
氏真は、早川殿の実家である北条を目指し相模へ逃げ延びました。
その結果、氏真は北条氏直を養子に迎え今川家の家督を継がせることになり、今川家は北条一門に吸収されました。
なぜここまで今川家は手厚い待遇を受けられたのか。
それは駿河侵攻の大義名分として、今川の名が役に立つと考えられたからです。
しかし、氏康の息子である氏政は越相同盟が上手くいかなかったため、また武田と同盟を結んでしまいます。これでは駿河に帰ることが出来ないと考えたのか、氏真はついに浜松にいる家康のもとに向かいます。
この点から氏真はまだ戦国武将に返り咲こうとすることを諦めていないのでは、と考証出来ますね!
そして、その後に氏真は父親の仇でもある織田信長に信玄討伐を頼みに行きます。
1575年、信長の前で氏真が蹴鞠を披露したことはあまりにも有名ですね。
定説での氏真のイメージは、そんな風に親の仇である織田信長にすら媚びを売る貴族かぶれだと思われて来ましたが、それはあくまで武田を倒すためにやったことだと氏真の動向を冷静に見つめればわかってきます。
氏真が戦国武将に返り咲こうと全く思わないのであれば、そのまま北条に援助してもらっていればすむ話ですからね。
しかも氏真は、1575年の長篠の戦いに後詰とはいえ従軍していたり、上杉氏に信濃を攻めるように書状をわざわざ書いていたことなども判明しています。
そうして氏真は実権はなかったかもしれませんが、家康の家臣として遠江国の牧野城を預けられました。