二次史料との関係 「写し間違え」説も
前回の『どうする家康』第11回(信玄との密約)ではなんといっても田鶴の最期に皆が悲涙をこぼしたことと思います。
しかし、戦国時代にしかも遠州?(そう)劇(今川家家臣たちが一斉に氏真を裏切った事件)後の混沌とした地を、わざわざ裏切った家臣の妻に任せるなんてことは本当にあったのでしょうか?
もともと曳馬城を任されていたのは、お田鶴の方の夫であった豊前守飯尾連竜(龍)でした。
連竜はなんと先ほど述べた遠州?劇の発端になった人物です。
『どうする家康』では、明確に飯尾家全体が今川家に敵対してしまう前に、城主である連竜を妻のお田鶴の方が氏真に密告し家康側に付いてしまう事を防ぐという話の展開になりましたが、この話の流れにもはっきりとした一次史料はありません。
この話の元ネタは、お田鶴の方について記している二次史料からだと思われます。
『武家事紀』や『浜松御在城録記』には、家康に内通していたと思われる連竜が永禄6年(1563年)に今川を離反し、永禄7年に家康に助けを求めながらも氏真に敗北した後に一度は氏真に赦免してもらっていますが、永禄8年にはなんとその氏真に誅殺されたと記されています。
連竜が誅殺された際のお田鶴の方について、
『飯尾の妻女はこの城曳馬城に立て籠り、飯尾家が今川家に別心の無いことを駿府に訴える一方で、家臣の江間安芸守同加賀守を家康のもとに派遣した。』
と書いてあり、さらにその後については、お田鶴の方が8人の侍女たちと今川方として徳川と対抗し討死したと書いてあります。
このように短い時間ではあるものの、お田鶴の方によって曳馬城は今川方とも徳川方とも言えない状態で連竜死後も存続していたと『武家事紀』や『浜松御在城録記』には記されています。
また、その他の多くの史料からは比較的「曳馬城は反今川・親徳川である」と読み取れることから、お田鶴の方が女城主になったのかはひとまず置いておくとしても、少なくとも今川方として徳川家康と戦って討死したことはないのでは?との推察が主流のようです。
むしろお田鶴の方は既に連竜と共に今川方に討ち取られており、曳馬城は新たな女主を迎えることなく廃城になった可能性が高いと考えられるのです。
ならばなぜこのような記述が見られるのかというと、『武家事紀』と『浜松御在城録記』が共に、お田鶴の方の一次史料である可能性の高い『板倉殿書』を写し間違えたのでは?と言われています。
曳馬城に1560年代よりも前に女城主がいて、その女城主が果敢にも戦って討ち取られたことを有名であるお田鶴の方と勘違いしてしまったのではという考証のようです。
この『板倉殿書』さえ出てくれば、お田鶴の方の存在が証明されるだけでなく、戦国時代の女性群像をさらにアップグレード出来るのに...残念ですね...