NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回3月19日(2023年)放送は「第11回 信玄との密約」です。登録者数14万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は? 過去の配信動画内容を軸に解説します。(ネタバレあり)
名前の由来は?
いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。
『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。
さて、今回はどんどん存在感が大きくなって来ている『築山殿』(ドラマ内では瀬名)についてです。
「築山」とは彼女が住んでいた場所から付いた名前であり実名は現在わかっておりません。戦国時代の女性にはよくあることですが、それは当時の風潮として男女ともに実名は書き表さないのが良いとされていたからです。
諱・忌み名とも書くほどで、書状などの都合上判明することの多い戦国武将たちとは違い、女性の実名は記録が残らないことがほとんどでした。
年齢も確定的な史料がなく、家康の2~3歳年上だったのでは、とまでは推測されています。
前回の第10回『側室をどうする!』では女性たちのやりとりがメインの回で、正室である築山殿が嫉妬したりと少し箸休め回に見えましたが、実は築山殿の今後を考えるとそうも言っていられません...。
そんな築山殿は最近の研究で大きくイメージが変わってきております。
まずは築山殿についての今までの定説を紹介いたしましょう!
今川義元の姪っ子説は誤り?
家康の最初の妻であり正室の築山殿は、今までのドラマ内では家康との結婚を「築山殿自身が嫌がる」という描写が良くされてきました。
それは家康が今川家の中で弱い立場である三河の領主の人質であり、日々酷い仕打ちを受けていたからだと考えられてきたからです。
さらには築山殿の母親はあの今川義元の妹で、そこから築山殿は今川義元の姪っこであると歴史家たちから思われていました。
なので築山殿からすると「今川家当主の姪である私がなぜ田舎者の家康なんかの妻にならないといけないの!?」となるわけです。
しかし最近の研究によって家康と築山殿はそんなに仲が悪くはなかったのではないか?と流れが変わってきています。
それは「築山殿は今川義元の姪ではなかった」という新事実が判ったからです。
実は築山殿の母親は今川家とは足利義氏という遠い先祖が一緒なだけの親戚・関口家の者であり、父親・氏純も関口家へ婿取りされた、今川とはあまり関係のない瀬名家の人間と判明しました。
つまり今まで義元の姪っ子と考えられていた築山殿は単なる今川お抱えの家臣の娘に過ぎなかったのです。
どうしてこのような混同が起きたのかというと、実は築山殿の父親である氏純の兄である貞綱という人物が今川義元の妹と結婚していたのです。
そこの事実と「幕府を開くまでに至った家康の妻」という欲目からこのような定説へと変化していったのかもしれませんね。
また家康は今川にいた頃は、名前を「元康」と名乗っていました。この「元」の字は今川義元からもらったとされています。
名前の一字を譲り受けるということは、それほどまでに家康が今川家に期待されていたと思われます。
さらには信康と亀姫がたて続けに産まれていることからも、少なくとも駿府に居住していた段階では仲が良かったのではと改めて考えられるようになってきました。
戦略上の「別居」の影響とは
また、ふたりの不仲説が囁かれていたのは他にも理由がありました。
築山殿が子供たちや両親と共に駿府城にいたにも関わらず、家康が今川氏真をいきなり裏切る形で岡崎城に入城したと思われていたからです。
もちろんそんな状態では関口家は一族郎党皆殺しに合う可能性は非常に高く、家康が今川に敵対するようになると父親の関口氏純は切腹させられたと定説では言われていました。
しかし新説では家康は氏真に頼まれて岡崎城入りしたのであり、信康だけは人質として駿府に留め置かれましたが、瀬名や亀姫は氏真の許可のもと家康へ送り届けられていたとされています。
さらには関口氏純も切腹はしておらず、所領没収のみの寛大な処罰であったと「関口伊豆守氏純」判物から判明しました。
なので「私が殺されるかもしれないのに織田家と手を組んだ」と恨むことも、「父の仇」と恨んでいるというのも考えにくくなっています。
とはいえ、築山殿の最期までふたりは全く問題のない夫婦関係だった、という訳ではなかったと思われます。
武田との戦いのため戦略上、浜松城と岡崎城との別居が始まると、1575年に徳川家臣の最大の裏切り「大岡弥四郎事件」が起きたり、1579年にはかの有名な「信康事件」が起こったりしてしまいます。
1575年に起きた「長篠の戦い」で消耗していた徳川家を裏切り、信康も優遇するから武田勝頼と再婚をしないかという大岡弥四郎のうまい話に、築山殿が応じてしまったのではないかと考えられています。
ギリギリでこの謀反は判明して家康は難を逃れますが、この時信康17歳ととても若く、築山殿の方が積極的に謀反に賛成した可能性は拭い切れません。
浜松城と岡崎城との別居がふたりの仲を冷やしてしまった原因になったのかもしれませんね...。
「壮絶な別れ方」になった事件にどうつなげる?
築山殿と信康とが死んでしまう決定的な原因となったのはやはり「信康事件」です。
織田信長の娘で気が強かった五徳姫は信康の正室となるのですが、築山殿と非常に仲が悪く、また成長した信康はとても暴力的でした。
そんな状況に耐えかねた五徳姫が、父親である織田信長のもとへ行き、「大岡弥四郎事件」で築山殿たちが武田に内通していたことを告げてしまったのです。
家康もすぐ信長に弁明の使者として酒井忠次を送りましたが、忠次は信長を前に何も弁明出来ず、引けなくなった家康は織田家との対立を避けるために築山殿と信康を岡崎城から追い出し、約一カ月後にふたりを殺害しました。
戦国時代でも正妻を殺すことはめったになく、このことから築山殿に限っては自害説もありますが、真偽のほどは史料も無くはっきりしないため、わかりません。
どちらにしても駿府で結ばれたふたりは、戦国時代においても屈指の壮絶な別れ方をしたわけです。
「どうする家康」の第10回では、側室のお葉も登場した上で、今回の家康と築山殿は岡崎城でもラブラブなままの脚本で描かれています。
この仲の良いふたりをどう大岡弥四郎事件や信康事件に繋げていくのか、より一層強くしっかり見守っていきたいですね...。
さて、今回の記事はここまで。
ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!
(追記:参考文献など)今回の参考文献は、『家康の正妻 築山殿』(黒田基樹著、平凡社新書)や『青年家康 松平元康の実像』(柴裕之著、角川選書)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。
<解説動画「築山殿(瀬名姫)に関する考察 『築山事件』はドラマでどう描かれるのか? 」は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください>
++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2023年1月には登録者数が14万人を超えた。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。