「どうする家康」マメ知識
「松平→徳川」改姓の深い事情 任官ピンチの家康を救った奇跡との関係 <歴史好きYouTuberの視点>

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「得川」と「徳川」

   そこで家康は、何代も前の先祖、「松平親氏」の存在を挙げます。以前、「松平氏とは?」という記事(1月13日配信)でも触れましたが、親氏はもともと三河に根付いていた松平家の養子となった謎の教養人です。

   この親氏が、もとは源氏庶流の新田氏の傍流の得川氏の傍流の世良田氏の出身であるとして、自身も新田氏傍流得川氏であり、由緒正しい家柄なのだと主張しました(そもそもこの親氏の出自については確実な史料がなく眉唾ものなのですが...そこには目をつぶりましょう)。

   しかし、それでも正親町天皇は難色を示します。『得川氏』と言っても、源氏庶流新田氏の傍流。『得川氏』の中から貴族になったという前例もなく、ようは天皇にとっては、聞いたことない一族だったからです。

   相変わらず、家康の三河守任官は難航しますが、奇跡が起きます。

   万里小路家という貴族の家から、得川氏に関する記録が見つかったのです。

   それによると、得川氏は2つの系統に別れ、片方の系統には、(どういったいきさつかはわかりませんが)「藤原氏(貴族)」となった人物が存在したようなのです。

   近衛前久は、これを前例として正親町天皇に交渉し、家康は三河守に任官することができました。

   すなわち、「松平家康」から「(藤原の)得川家康」と名を変えることで、三河守として朝廷から公認されたのでした。

   そして、家康は「得川」を「徳川」と改め、(理由は不明。徳のほうが縁起がいいからか?)みんなの知っている「徳川家康」となりました。

   いくら戦国大名が実力で地域を支配しても、朝廷からオフィシャルな支配者として認められるには、かなり面倒な手続きが必要だったんですね。

   そして、これは余談ですが、室町幕府15代将軍・足利義昭は、家康のことを「徳川」とは認めず、「松平」の名字で呼び続けました。

   それは家康の徳川改姓に尽力した近衛前久とは政治的に対立していて仲が悪かったからです。なんと器の小さい男でしょうか。

   このあたりも、「どうする家康」では描いてくれるのでしょうか?楽しみです。

    さて、今回の記事はここまで。ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!

   (追記:参考文献など)今回の参考文献は、『定本徳川家康』(本多隆成著、吉川弘文館)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。

   <第9回解説動画は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください>


++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2022年冬には登録者数が13万人を突破した。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。

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