NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回3月12日(2023年)放送回は「第10回 側室をどうする!」です。登録者数14万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)
三河守になりたいが...
いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。
『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。
みなさんご存じ徳川家康ですが、ドラマで描かれているように、もとの名字は『松平』でした。あまり歴史に興味のない方の中には、家康の最初の名字が「松平」だと知らず、「松本潤さんは徳川家康をやるんじゃないの?」と混乱された方もいると思います。
今回は、松平家康が、なぜ『徳川』に改姓したのか、その理由を解説します。
永禄9年(1566)、25歳の家康はついに三河一国を平定することに成功しました。しかし、松平はもともと三河国を支配することを認められた家柄ではありません(桶狭間の戦いで戦死するまでは、今川義元が三河守に任官されていました)。
ただ、敵対勢力を力でねじ伏せたに過ぎない家康には、正統性がなかったのです。
そこで家康は、朝廷に願い出て正式に「三河守」に任官してもらうように働きかけました。
この働きかけは、家康が懇意にしている誓願寺の住職・泰翁(たいおう)から関白・近衛前久を通して行われました。
本来、武士である家康は、関白ではなく室町幕府を通して手続きを行わなければならないのですが、この前年に将軍足利義輝が永禄の変で殺害され、幕府が機能していなかったため、関白を通じての出願になりました。
ところが、正親町天皇はこの家康の願い出に難色を示します。
これまでに「松平」という一族の人間が、本来は公家(貴族)が就くべき国司に任官されたという前例が無かったからです。
ざっくり言うと、「どこの馬の骨とも知れない田舎者に、三河守なんて任せられるか!」というハナシです。