信玄は停戦の見返りを求める
義輝は謙信の助力を得るため、武田信玄との戦いを仲裁、二人に戦いをやめるように命じました。
これに対し信玄は、停戦をする見返りを将軍に求めます。将軍からの命令に対して、このようにふてぶてしい態度を取れるのは、さすが信玄といったところでしょうか。
信玄は、謙信との停戦の見返りとして、信濃国守護の地位を与えられました。これはもともと信玄が信濃から追い出した小笠原長時のものです。
こんなことを許せば、やりたい放題じゃないか......と思わずツッコミを入れたくなりますが、それほど足利義輝も切羽詰まっていたのでしょう。二人を和睦させ、謙信に上洛を要請しました。
ところが、信玄は戦いをやめませんでした。
話が違う!!と義輝は激怒しますが、信玄はこのように反論しました。
「信濃守護の仕事は、信濃の平和を守ること。信濃国の平和を乱す奴(=謙信)とは戦わないとなぁ!!」(超意訳)
戦いをやめさせるために与えた信濃守護が、かえって戦う大義名分となってしまったのです。いくらなんでも義輝が可哀そうですが、信玄がこう言い張って戦いを続けたため、謙信の上洛は実現しませんでした。
それから数年が経った1559年、義輝は再度、上杉謙信へ上洛を要請します。
大義名分を掲げて戦い続ける信玄に対し、謙信も大義名分が必要と考えたのでしょう。謙信はこの要請に応じて上洛し、義輝から様々な特権が与えられました。謙信は越後国主であることと、関東管領の継承を事実上認められ、信濃の武田信玄、関東の北条氏康を討伐する許可も得ました。
こうして謙信は、1560年、関東の北条氏を討つべく越山しました。
桶狭間の戦いが起きた二か月後のことでした。
今川氏真の記事でも解説しましたが、この頃、関東も大変なことになっていたんですね。