一時は離反、出奔するが...
しかし同じ本多と言っても正信の若いころはよくわかっておりませんが、第5話にして初登場するように、第1話の丸根砦の戦いには参加していなかったようです。
文献では三河一向一揆に参戦していることは認められますがこの時はなんと一揆側についており、つまりは家康と対立した立場だったようです。
結局は一揆側が負け、一揆側についた家臣たちの中には家康に謝ったのち許された者もいました。
が、この正信は謝ることもなくさらには加賀国に出奔しています。
加賀国には浄土真宗の本拠地である本願寺がありますから、そこを目指して家康から離れたのかもしれません。
正信は相当に信仰心が強かったがゆえに家康と一旦は袂を分かちたかったのかもしれませんね。
しかし、なんとその後に正信は家康に直接戻ってくるよう嘆願されています。
以上のエピソードからも正信の能力が高く、家康に頼りにされていたことがよくわかりますが、そんな正信と家康の関係は『寛政重修諸家譜』でもしっかり記述されています。
『乱には軍謀にあずかり、治には国政を司どり、君臣の間相遇うこと水魚のごとし。
しかんのみならず諷諫をたくみにして御親子の間むつまじく、また上下志を通ぜしむるに至るまで其の功おおいなり。』
水魚の交わりとは『三国志』の中で劉備が諸葛亮を重用していたことから来た故事成語で、水と魚のような関係ということを表しています。
続きには、遠回しに悪いところを指摘してくれ、また上司部下の間を取り持ってくれるということが書いてあります。
こんな部下がいたとはとても羨ましい。
このように諫言してくれる部下を終生大切にしていたからこそ、家康は天下統一が叶ったのかもしれませんね。