「どうする家康」マメ知識 「徳川」名乗る前の「松平」家、どういう一族だったのか
<歴史好きYouTuberの視点>

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「謎の浪人」から...

   この義氏は、後の室町幕府将軍足利一族の御先祖様であり、鎌倉幕府執権・北条一族と深いかかわりがあったことから、東海道の要地・三河の守護を鎌倉幕府より任されていました。

   室町時代には、「細川」や「一色」「吉良」といった三河国内の地名をとった足利の分家も現れます。

   そんな足利氏と縁も深い三河国で台頭したのが松平(現在の愛知県豊田市)の土豪・松平信重です。

   この信重は武将ではありません。どうやら土木工事などで財を成した裕福な土豪だったようです。東海道の要地で人の流れも多いですから、街道を整備したりする土木業も潤ったのでしょう。

   そして、この信重の婿養子となった人物、「松平親氏」こそが武士としての松平家の始まりと言われています。

   親氏は出自不明の謎の浪人でしたが、信重に気に入られて婿になりました。ある史料によると、どこからともなく現れた親氏が、信重の催す連歌会に参加してその教養を認められたと言います。ちなみに親氏は新田源氏の末裔であるという説もありますが、真偽のほどは不明です。

   松平家を継いだ親氏は、さらに勢力を拡大し、親氏の子・信光の代には室町幕府の官僚、伊勢氏の被官として名実ともに武士となりました。

   その後、応仁の乱をはじめとしたさまざまな戦乱を乗り越え、家康の祖父・清康の頃には岡崎を中心に、強い影響力を持つ国衆として西三河に君臨するようになります。

   清康は、自身の正統性をアピールするために、『世良田』という名字を名乗っていました。これは新田源氏の流れをくむ一族の名字です。中世の人たちは家柄をとても重視します。家柄がその人をどれくらい信用できるかの尺度になるからです。

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