「鎌倉殿の13人」 もしドラマで描かれていたら印象変わった? 「承久の乱」後、三浦義村・胤義の兄弟対決が持つ意味
<歴史好きYouTuberの視点>

   NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の12月18日(2022年)放送回は「最終回 報いの時」でした。登録者数13万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、「最終回」の解説動画で最も熱く語りたかった「ツボ」は?

   動画内容を軸に再解説します。(ネタバレあり)

  • 歴史解説YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」 鎌倉殿の13人「最終回」解説動画より
    歴史解説YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」 鎌倉殿の13人「最終回」解説動画より
  • 歴史解説YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」 鎌倉殿の13人「最終回」解説動画より

吾妻鏡には何ページもかけて幕府軍の戦没者リストが

   いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。

   ついに、鎌倉殿の13人も最終回。こちらも最後の解説でございます!

   まず描かれたのは後鳥羽上皇と鎌倉幕府が争った、『承久の乱』でした。

   『承久の乱』は、『吾妻鏡』や『承久記』が記録を残していますが、その内容については、創作や誇張されている部分も多いそうです。

   政子の演説で戦うことを決めた幕府軍は、箱根あたりを防衛線として上皇軍を迎え撃つ作戦が提案されますが、大江広元や三善康信ら京出身の文官たちが即時進発を主張し、泰時が十八騎を従えて出陣したと、通説では言われています。

   三善康信はこの戦いの後に病死しており、病を推して軍議に参加したようです。ドラマでは、すでに即時進発は決まっていましたが、三善殿の顔を立ててあげるというコミカルな脚色になっていました。三善殿はこれまで大事な場面で役立たず扱いされることも多かったので、最後に花を持たせた大江殿や政子たちの大人な対応にほっこりしましたね。

   即時進発を決めた首脳陣は、まず泰時を少数で出陣させ、御家人たちの尻を叩きました。軍勢はどんどん膨れ上がり、最終的には19万騎もの大軍になったと伝わります。これは後鳥羽上皇が「まやかしの数字」と言ったように、誇張された数字だとは思いますが、上皇の予想に反して、多くの坂東の武士たちが泰時に追随したのは間違いないでしょう。

   対する上皇軍の兵数は、およそ1.9万騎。圧倒的な兵数差で勝敗は決しました。

   それでも宇治川の戦いでは幕府軍も多くの死傷者を出しており、吾妻鏡には何ページもかけて戦没者リストが記録されています。

   ドラマでは、平盛綱(鶴丸)が矢を受けて倒れていました(のちに負傷のみと判明)が、吾妻鏡によると泰時の弟・五郎(伊賀の方の子か?詳細は不明)が戦死しています。

   追い詰められた上皇は、この戦いの責任を藤原秀康や三浦胤義になすりつけることで保身に走りました。たしかに上皇が出陣すれば形勢逆転の目はあったかもしれませんが、京都が火の海になることは必定。後白河法皇から受け継いだ王家を守るための苦渋の決断だったのでしょう。

   上皇の鞍替えによって逆に謀反人になってしまった藤原秀康は逃亡するも捕まり、処刑。三浦胤義は、兄・義村と対峙しますがあえなく敗れて自害しています。

   ドラマでは胤義と義村の決別が描かれていなかったのが非常に残念でした。

   義村は伊賀の方と結んで義時毒殺を図るも見破られ、最後は和解するという展開になっていましたが、この兄弟の別れが描かれていたら、また印象は違ったかもしれません......

   後鳥羽上皇は隠岐の島へ配流され、新たな天皇は後鳥羽上皇の甥にあたる後堀河天皇となりました。

   しかし、上皇は諦めておらず、隠岐に配流された際に詠んだといわれる歌は、とても強い意志を感じるものになっています。

「我こそは 新島守(にいじまもり)よ 隠岐の海の
 荒き波風 心して吹け」

   その後、後鳥羽は京への復帰を再三要請しますが、三代目執権となった泰時はそれを許しませんでした。

   失意のうちに隠岐で亡くなった上皇は怨霊になって、北条時房や三浦義村を呪い殺したとも言われています。

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