スタジオにテレビ朝日の玉川徹が登場し、「東京・四ツ谷にあるフランス料理のレストラン『オテル・ドゥ・ミクニ』のシェフ、三國清三さんが、12月14日(2022年)に『三流シェフ』という自伝を出版しました。この本を読んで、『えっ、こんな人だったのか』と知りました。貧しい家庭に生まれたこと、人生で成功するには何が必要か、原点に返るとはどういうことか、お話を伺ってきました」と話し、画面は取材VTRに変わった。16日の「モーニングショー」
1985年にオープンした『オテル・ドゥ・ミクニ』には岸田文雄首相をはじめ、内外の要人や食通が足繁く通ってくる。80席ある店内はいつも満席。フランスのレジオン・ドヌール勲章を受け、「ジャポニゼ」とも評される料理界のカリスマ、三國シェフは半生をつづった自伝で「年末に店を閉め、新たな夢に挑戦する」と言う。
半生を語る
玉川のインタビューに答えて、三國シェフが半生を語る。誕生は高度成長期の1954年、生まれは北海道・増毛町。両親は半農半漁で兄弟は7人だった。三國は「たまに学校に行くと、先生に帰って家の手伝いをしろと言われるほど貧乏だった」と振り返る。小2で手漕ぎの船での漁に出て、高学年になるとウニやアワビを魚市場に売りに行くことも任されていた。三國シェフは「アワビを売るために訪れた料理店で戸を開けたら厨房だった。あの光景は今も忘れない」と書く。暖かい湯気に満ち、いい匂いがする。三國シェフは「この記憶が自分が何をするべきかと考えた時の決断に結びついたのではないか」と語る。
中学を出て米店で働きながら調理師学校に通った。その米店での食事は初めて食べるものばかり。ハンバーグに驚くと札幌グランドホテルのハンバーグはもっとおいしいと教えてもらい、高卒以上じゃないと働けないはずのそのホテルで働くことになる。料理学校のマナー研修で訪れた際に頼み込んで、パートとして洗い場で働くことになった。夜中に厨房で練習を重ね、ワゴンサービス係に大抜擢された。しかし帝国ホテルには「料理の神様」がいることを知ると、紹介状だけをもって18歳で上京。再び洗い場でひたすら鍋洗いをするパートタイムに。2年後、辞めることを決意し、ホテル内18のレストランすべての鍋洗いを続けていたところスイスの大使館の料理人に推薦され、単身スイスに。
スイスの日本大使館の料理長になったはいいが、フルコースを作ったこともない。スイスの名店を訪ね、教えを請い腕を磨いていく。そんな中「自分には師匠がいない」と考え、ジュネーブ近郊のレストランで出会った天才シェフ、フレディ・ジラルデに師事しようと鍋洗いをした。三國は「前に進むしかなかった。厨房で鍋を洗うのは僕の原点の原点」と言う。
5年間ジラルデに師事した後、フランスに移り三ツ星レストランを渡り歩く。そんな時『厨房のダ・ビンチ』と呼ばれたアラン・シャペルに出会い、自分の料理を「洗練されていない。お前は日本人だろう」と指摘され、82年に帰国。85年に自分の店をオープンさせ、大人気店に育てた。
「閉店するのか」と尋ねる玉川に答えて、三國は「12月28日のランチを最後にやめて、更地にする」と話す。2年後に同じ場所で8席の店を作り、すべての料理を自分一人で作る店を始めたいというのだ。
「本気になれるかというのが人生の分かれ目だと」
三國シェフは「もともとはジラルデさんみたいに自分の料理を提供する店をやりたくてオープンさせたんです。37年たって、その夢を今やらないと後悔すると考えた」と話す。
これを聞いた玉川は「三國さんのキャリアの原点は鍋磨きだと思う。僕もある事情があって今、原点に返っているんです」と答えていた。
スタジオで玉川は「この本を読んで僕は『本気である』ということ、『原点に返る』ということについて考えました。今、若い人たちは『タイパ、コスパ』といって効率だけで進んでいるが、それで仕事上の成功があるのかと疑問に思っていた。その答えの1つがこの本の中にありました」と言う。
バイオリニストの廣津留すみれは「私も効率大好きですが、音楽の先生は『誰が見ているかわからないから、お客さんが5人しかいなくても常に全力でやれ』と教わった。なので鍋磨きの話には勇気をもらった。私も原点に返って、また突き詰め直したいと思った」とコメント。
玉川は「鍋を磨くのも本気だったんですね。本気になれるかというのが人生の分かれ目だと思う」と訴える。
スポーツコメンテーターの長嶋一茂は「三國さんが出会った天才シェフたちは、三國さんの鍋磨きを見て雇ったわけです。三國さんもすごいけど、僕は鍋磨きする三國さんを見てくれた人もすごいと思いました。原点に戻ると簡単に言うが、37年間のキャリアもある、プライドもある。そういうものを壊して原点に戻るのには英断がないとできない。8席で魂込めるのだろうと思う」とコメントした。
(バルバス)