反乱鎮圧にも成功
頼朝存命時には武蔵守に任官し、善政を敷いたことで評価された人物でもあります。
そんな偉大な父を持つ朝雅。母親は比企尼の娘で、名前の『朝』の一字は頼朝から与えられました。頼朝の養子にもなるなど、彼もまた鎌倉幕府において厚遇されていました。
やがて北条時政の娘を妻に娶って父の跡を継ぎ、自身も武蔵守に任官。さらに、京都守護として上洛し、後鳥羽上皇からも厚くもてなされました。朝廷からは「正五位上・右衛門権佐」という官職を与えられており、これは執権・北条時政をも凌駕するステータスでした。
生まれも育ちもエリートの朝雅ですが、仕事もしっかりこなしています。
京に滞在中、伊勢・伊賀の国で平氏残党による反乱が起こりました。両国守護の山内首藤経俊は、反乱の鎮圧に失敗して逃亡します。幕府と後鳥羽上皇は経俊の尻拭いを朝雅に任せました。京より出陣した朝雅はこの反乱を三日間で鎮圧し、褒美として伊勢・伊賀の国の守護に任命されました。
血筋と実績、この両方を兼ね備えた平賀朝雅は、一般の御家人たちとは一線を画す人物だったことは間違いありません。
りく(牧の方)が朝雅を鎌倉殿に擁立しようとしたことは、義時ら御家人たちの意向を無視したために無謀なものとなりましたが、朝雅のスペックだけを見れば、決して実現不可能な企てでは無かったのかもしれないですね。
朝雅自身が鎌倉殿への就任する野心を抱いていたかどうかは、記録上定かではありません。むしろドラマで描かれたように、思いもよらぬところで鎌倉での政争に巻き込まれてしまった可能性が高いと私は考えています。
順風満帆に見えた人生も、どこで転落するかわからない。平賀朝雅の運命から、我々も学ぶところがあるかもしれないですね。
さて、今回の記事はここまで。ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非動画をご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!
【追記:参考文献など】今回の参考文献は、『北条時政:頼朝の妻の父、近日の珍物か』(野口実著、ミネルヴァ日本評伝選)、『鎌倉幕府抗争史~御家人間抗争の二十七年~』(細川重男著、光文社新書)、『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。
<第37回解説動画は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください>
++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2022年夏には登録者数が12万人を突破した。