NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の9月18日(2022年)放送回は「第36回 武士の鑑」でした。登録者数12万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、「第36回」の解説動画で最も熱く語りたかった「ツボ」は?
動画内容を軸に再解説します。次回放送をより楽しむための準備・復習にもお役立てください。(ネタバレあり)
息子たちを襲った事態
いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。
鎌倉殿の13人第36回『武士の鑑』では、畠山重忠の哀しくも天晴れな最期が描かれました。主人公・北条義時との一騎打ちは、まさかのステゴロとなり、見てるこちらも熱い気持ちが込み上げてきましたね。
あの戦いの後、重忠の息子・重秀を始めとした畠山一族は自害に追い込まれ、滅亡してしまいます(出家して生き延びた重慶という子もいましたが、後に謀反の疑いで殺害されています)。
しかし、この「畠山」という名跡は後世まで残り続けました。日本史の教科書などでも、「畠山」の名を目にした記憶がある方も多いのではないでしょうか。
今回は、畠山一族のその後についてお話したいと思います。
ドラマの中でも描かれたように、畠山重忠の遺領は、北条政子の差配によって戦いに勲功のあった御家人たちに分け与えられました。しかし、重忠の本領であった畠山郷だけは政子の計らいで、重忠の後家(ドラマでは「ちえ」)に安堵されたと考えられています。
平安・鎌倉時代は、夫に先立たれた妻=後家が夫の財産を引き継いで管理する、という常識があったためです(この後家が財産を引き継ぐという文化は戦国時代以降あまりみられなくなるので、この時代特有の文化かもしれません)。
「源姓畠山氏」の流れ
その後、重忠の後家は足利義純という人物と再婚しました。
鎌倉殿の13人は登場していませんが、あの有名な足利出身の人物です。二人の間には男子が生まれ、成長して「畠山泰国」と名乗りました。重忠の後家の子が、名実ともに畠山重忠の後を継いだということになります。
ちなみに、源氏である足利氏の血を引いているため泰国以降の畠山氏を「源姓畠山氏」と呼びます。源姓畠山氏は、能登や奥州など各地へ広がっていきますが、本流は武蔵国に影響力を持ち続けました。
やがて鎌倉幕府が滅亡し、室町時代に突入すると、源姓畠山氏にも大きな転機が訪れます。
関東管領・上杉氏の台頭です。
上杉氏は足利尊氏の母方の実家で、尊氏が関東に鎌倉府を置くと外戚としてそれを補佐し、関東での影響力を強めたのです。
この頃の畠山氏の当主・基国は、はじめこそ鎌倉公方・足利基氏に重用されていたものの、基氏の死去に伴って勢力が衰退し、関東での覇権を上杉氏に奪われてしまいました。
基国は上杉氏との権力争いを避け、活躍の場を求めて京都政界へ転身します。畠山の本流として代々武蔵国で名跡を継いできた基国にとって、これはとてつもなく大きな決断だったでしょう。
結果的にこの転身は成功し、室町幕府三代目将軍・足利義満に重用され、基国は細川氏・斯波氏と並ぶ『管領』の地位を手に入れました(ざっくり言うと幕府で将軍の次に偉いポジションです)。
そして、この基国の子孫・畠山義就が世紀の大乱、『応仁の乱』を引き起こし、日本の歴史を大きく動かしました。
戦国時代以降は大きな活躍はありませんが、『畠山』の名は残り続けました。
形はどうあれ、家名が何百年と続いていったのは凄いことですね。
畠山重忠もあの世で浮かばれているのではないでしょうか。中川大志さんの演じた重忠の清々しい姿を見ると、そう思わずにはいられません。
さて、今回の記事はここまで。ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非動画をご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!
【追記:参考文献など】今回の参考文献は、『中世武士 畠山重忠』(清水亮著、吉川弘文館)、『シリーズ・中世関東武士の研究 畠山重忠』(清水亮編著、戎光祥出版)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。
<第36回解説動画は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください>
++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2022年夏には登録者数が12万人を突破した。