本コラムの年頭(2021年)で、私が報道のニュース編集部長(ニュースの制作の責任者)でいろいろ苦労をしたところまでをお伝えしましたが、今回はその後のことについて振り返ってみました。
2004年7月に、私は久しぶりに古巣の編成本部編成担当総務(兼)制作センター長(兼)ドラマ制作部長になりました。これは氏家斉一郎さんの「そろそろ視聴率のことをやれ」ということでした。ドラマ制作部長というのは、それまでドラマをやったことのない私にとっては、初めてのことでしたが、当時の編成局長だった山根義紘に言われたもので、ドラマ制作部長としての苦労談は以前このコラムでもお話ししました。
ドラマ制作部長から「バンキシャ誤報事件」対応のために再び報道局へ
その後、編成局長、制作局長と職を重ねた2009年2月、私はまた氏家さんから呼ばれました。氏家さんは「弘(氏家さんは、私のことを名前で呼んでいました)、バンキシャ(「真相報道バンキシャ!」)を作ったのはお前だな。今回の「バンキシャ事件(岐阜県庁裏金誤報事件)の対応のために報道に行け」と言うのです。私は「もう少し今の制作局長をやらせてもらえば、フジテレビ(当時視聴率三冠王だった)の背中が見えているところなので、フジテレビを抜くことができます」と言ったのですが、聞き入れてもらえませんでした。
早速、謝罪放送の制作・放送、BPO(「放送倫理・番組向上機構」)への対応と忙しい日々を送りました。
その後も取締役報道局長として、氏家さんから直接厳しい指導を受けました。「TVマンとして、今の私があるのは、氏家斉一郎さんのお陰です」と言い切れるほど、たくさんの指示、指導を受けました。
忘れられない氏家さんの言葉はたくさんありますが、深く共感した一言をご紹介します。それは、氏家さんが当時の民主党政権との向き合い方について、「テレビ報道の公平・公正という観点を踏まえてその危うさを指摘することが大事だ」とのアドバイス。私はそれを聞いて、改めてその通リだと思い、報道局長として肝に銘じました。
氏家さん、本当にありがとうございました。