前回、バラエティー一筋の制作に携わってきた私が営業部へ異動になったお話をしました。その続きです。
営業部長として行ってみると、最初は"ショック"がありましたが、楽しかったのです。やはり、編成・制作と営業はテレビ局の両輪でテレビ局に、なくてはならない部署でした。
営業には"仕切り"という仕事があります。"仕切り"とは、どの枠にどのスポンサーを収容するかを決める、重要な会議です。
私が営業部長として"仕切り"のポイントとして大事に思っていたことは、次の5点でした。
(1)その枠にスポンサーが払う金額
(2)その枠とスポンサーが合うか
(3)その枠をスポンサーにずっとやってもらえるか
(4)広告会社のバランス
(5)部員の頑張り。
印象深かったのは、2000年の読売ジャイアンツと福岡ダイエーホークスとの日本シリーズです。長嶋監督と王監督の戦いで大変盛り上がった試合で、高視聴率を取り、営業も日本シリーズ史上最高の売り上げを記録しました。
報道経験ゼロの私がニュース編集部長に
翌年の野球のシーズンが始まってから、日本テレビの氏家斉一郎さんと前川磐局長と一緒に東京ドームの食堂で食事をしているとき、氏家さんから新たな指令が飛びました。
「弘(氏家さんは私のことを名前でよんでいました)、お前は次に報道に行け」
驚いた私は「社長、私は報道の経験もないし、原稿を書いたこともありません」と言ったら、氏家さんは「それでいいんだ。おまえみたいな、制作現場である程度やってきた奴がやるのが良い」と言い切りました。
私は、家に帰ってから考えてみて「それもあるかな。もともとテレビは報道機関であるし関心もある。報道で頑張ってみよう」と思いました。
2001年7月に報道に行って、いろいろな人に指導を受けて、何とか責務を果たすことができました。当時のエピソードのひとつを以前ご紹介しましたが(ニュース編集部長になった年に起きた「9.11テロ」―テレビニュースのあるべき姿をたけしさんが見せた)、次週もどんな経験をしたのか、お話しします。