認知症と診断された人が先に認知症になった「先輩」に悩みを打ち明ける相談室を、香川県三豊市立西香川病院が設けている。診断後のショックが長引くと進行すると言われる認知症に、同じ病の人が相談にのることで立ち直るきっかけを作ってほしいとの考え方だ。「なった者にしか分からない」切実な気持ちに思いやりの輪が広がる。
6年前に脳血管性認知症と診断された渡邊康平さん(78)が、そこの相談員だ。これまで70人の相談にのってきた。
今年(2020年)7月、初めてここを訪れた高橋道夫さん(68)は3年前にアルツハイマー型認知症と診断され、その現実を受け入れられないでいた。
渡邊さんは「私も医師に認知症と言われ、冗談言うなとだいぶやりあいました」と、自身の体験から語り始めた。記憶がどんどん消えていったという。「ただ、認知症になってもすべてができなくなるわけではない」「できないものは、言っても返ってこない。できることで人生を作り直します」と語りかけた。
最初は表情も硬かった高橋さんも「本当に刺激になる」とうなずいた。かたわらで妻が「よかった」とつぶやいた......。
ショックから立ち直るのに2年
渡邊さんは地元の商工団体に勤めていたときに書類のミスをたびたび起こし、病院で認知症と診断された。72歳だった。診断のショックから立ち直るのに2年かかったそうだ。
日記には「認知症への脳になっていた。自分でじぶんがわからない」とつづった。食事がのどを通らず、85キロあった体重が61・4キロにまで減った。人目を避け、家に閉じこもった。
妻の昌子さんはあえて励ましの言葉をかけず、少しずつ散歩に誘った。「本人は言葉は出ないけど、体とか表情とかでいっぱい(気持ちを)出しているんですよ。それをキャッチして、できるだけ気持ちを大事にしてあげるようにしました」という。4カ月後、渡邊さんは日記に初めて「じぶんでじぶんをさがそう」と前向きな言葉を出した。
2年後に渡邊さんはかつて通っていた囲碁クラブに再び通いだし、腕前を取り戻した。「認知症になってもできることがある」と、自信が戻ってきた。
子供の名前覚えられず学童ボランティア辞める
高橋さんは市役所を退職後、学童のボランティアを2年間していた。症状が進行し、「子供の名前を覚えられない。子供たちは私の名前を知っているのに」と、当時の日記に書いた。「教えてと来る子供たちに教えられないことがつらくて、つらくて」。辞めざるを得なかった。
高橋さんは最初の訪問から1カ月後、再び相談室を訪れた。渡邊さんが伝えたのは「認知症になって初めてわかった気づき」だという。「碁でも打つかと出かけていき、最初はどうにもならなかったけど、頭の中でどんどん(手が)出てきた。そこのところは壊れていなかったんやね」との体験談だ。3年たち、渡邊さんは五段に返り咲いた。「自分らしい人生を作っていくことが認知症でもできる」と今は思う。高橋さんは「いい話が聞けた」と応じた。この日は渡邊さんと高橋さん夫妻が談笑する姿も見られた。
認知症患者の家族がかかえる悩みも、渡邊さんはケアする。自身が妻に支えられた経験を話す。「私が物も言わない、仕事もしない時から女房が弁当を作って運動公園に行って食べたりしてくれました」
渡邊さん夫妻に励まされ、アルツハイマー型認知症と診断された妻(74)を思い出の海岸に誘いだした夫もいる。妻は「ここに来たのはこないだのような気がする。風はあるけど気持ちいい」と反応した。つらい診断の後も、2人してまた歩みだした。
それでも進む認知機能の低下
しかし、渡邊さんの認知機能の低下は進む。「日に日にここらへん(頭の一部)の奥が......いろんなボケがある」という。相談室で働ける時間は長くはないと思っている。それでも、渡邊さんは一日でも長く認知症と診断された人と向き合いたいと願う。「同じメッセージを繰り返し語ることでいつかは伝わる」「楽しまないと、なんのために生きとるか分からん。やりたいことをやったらええ。一つでもできたら家族が喜ぶ」との信念がある。
高橋さんは病院から渡邊さんのサポート役として相談員を務めてほしいと依頼された。
「認知症ではできんものはできんけどな、できるものはできるんよ」。渡邊さんの言葉だ。
自身も認知症の母親と暮らす脳科学者の恩蔵絢子さんは「病院で診断を受けるときは何ができないと、ネガティブなことばかり気にするが、母の実像と違うと感じます。自分はこれができるぞといった主体性の感覚を持てば、幸福度が高まるし、活動度も上がる」「また、自転車のように体で覚えた身体的記憶は認知症になっても残りやすい」と指摘する。周囲がその人の主体性を尊重し、やれることを見つけてあげれば、その人らしさを大切に、ともに豊かな時間を作れるということだろうか。
※NHKクローズアップ現代+(2020年12 月17日放送「認知症の私が認知症の相談員に」)