安倍首相が第一次政権の時と同じように、持病の潰瘍(かいよう)性大腸炎悪化のために辞任する。
火元はFLASH(8月18・25日号)だった。7月6日の首相動静に小池百合子都知事と面談を終えた11時14分から、16時34分に今井尚哉首相補佐官らが執務室に入るまでの約5時間強、空白の時間があった。この間に安倍首相が吐血していたのではないかという情報が永田町に流れていると報じたのである。
それをきっかけに波紋はさらに広がった。甘利明税制調査会長が『日曜報道THEPRIME』(フジテレビ)に出演して、「ちょっと休んでもらいたい。責任感が強く、自分が休むことは罪だとの意識まで持っている」「数日でもいいから強制的に休ませなければならない」と発言した。
吐血情報がFLASH発というのがキーポイントだ。リークする側にとって大新聞やテレビは大騒ぎになる。観測気球にもってこいの媒体だ
さらに、FLASHの「吐血報道」について会見で質問された菅義偉官房長官も、「私は連日お会いしているが、淡々と職務に専念をしている。まったく問題ないと思っている」と回答したが、FLASHの記事については否定も抗議するともいわなかった。
そんな中、8月17日、突然、安倍首相は定期検査だと称して、主治医のいる慶応大学病院に入ったから騒ぎはさらに大きくなった。
半年に1回は診てもらっているというが、前回は6月。わずか2ヵ月での検診が吐血情報にさらに信ぴょう性を与えたのである。
私は、FLASH発というのがキーポイントだと思う。こうした一国のリーダーの体調に関する情報は、真偽にかかわらず、リークする側に何らかの思惑があることは間違いない。
だが特定秘密保護法に匹敵するような重大情報を、大新聞やテレビに流せば、大騒ぎになり、安倍首相を含めた周辺が、徹底的に否定するとともに犯人探しに躍起になることは必至である。
FLASHには失礼だが、ここが書いても、それだけでは大きな騒動にはならない。永田町ではよくやられることだが、アドバルーンをあげて、安倍陣営や世論の反応を見るには格好の媒体だったのではないか。そこにリークした側のしたたかな戦略が感じられるのだ。
安倍が慶応病院で受けた検査「GCAP」は、潰瘍性大腸炎がステロイドでは抑えられないほどひどい炎症を起こした時におこなわれる
だが、予想外に事態は動き出したのである。自民党、それも安倍に近い議員たちから安倍の容態を心配する声が次々に上がり、安倍自らが、側近の今井尚哉を迎えに来させ、慶応大学病院へ入って8時間近くも出てこなかった。
文春で首相秘書官の一人がこう呟いている。
「よくよく調べてもらわないと......。実際(安倍首相の身体が)どうなっているのか、分からない」
官邸関係者も、安倍がこのところ「体調を崩した」「腰が痛い」といっており、「エレベーターの前で壁に手をついたこともある。新型コロナ対応で一月下旬から働きずめなので、疲労がピークに達しているようです」と語る。
新潮でも、FLASHの内容を裏付けるような証言を、さる官邸関係者が漏らしている。
7月6日に安倍総理は吐血はしていないが、朝から体調が悪く、「執務室で『クラクラする』と呟き、食べたものを吐いてしまった。その吐瀉物の中に鮮血が混じっていたのです」。やはり新潮で、自民党の閣僚経験者が、「総理は今回、がんの検査も受けました」と語っている。
文春で慶応大学病院の関係者が、安倍が受けた検査について、こう話している。
「この日、安倍首相は顆粒球吸着除去法(GCAP)を行ったようです。これは潰瘍性大腸炎がステロイドでは抑えられないほどひどい炎症を起こしているときに行うもの。GCAPの治療は、太い針を刺すので痛みも伴うし、頭痛などの副作用もある。治療後は身体がしんどく、1、2日は休む必要がある」
その通り、安倍は翌日を休養にあてた。安倍を担当する医師団の一人を文春が直撃すると、「GCAPですか。それをやったか、やっていないかは何とも申し上げられない」と答えている。やはり、持病の悪化というのは間違いないようだ。
永田町では、安倍が8月末か9月中には辞任を発表するのではないか、という声がしきりである
この病気に一番いけないのがストレスである。自身の「桜を見る会」疑惑に対する追及、それに加えて、新型コロナウイルス拡散への対応と、ストレスが溜まる一方だったことは想像に難くない。
小中高一斉休校から始まり、アベノマスク、「GoTo」キャンペーンの失敗で、支持率も30%台を切るところまで落ち込んでいる。その上、夕食は出前の弁当を寂しくつつく孤独のグルメでは、身体だけではなく精神的にも追い詰められているのであろう。
今月(2020年8月)24日に安倍首相は、大叔父・佐藤栄作を超えて首相在任記録が歴代最長になる。
長いだけで何もレガシーのなかった不思議な政権として長く歴史に刻まれるであろう。それを機に、月末か9月中には辞任を発表するのではないか。その声がしきりである。
だが、「ようやくか」と喜んでばかりはいられない。新潮によれば、検査の前々日、安倍は私邸で麻生を呼び、そこで、「自分の身に何かあったとき、後は麻生さんにお任せしたい」と伝えたという。
冗談ではない。われわれ国民は、持病を抱えてもしがみつくかもしれない安倍か、麻生かの「究極の選択」しかないのか。真っ暗闇じゃござんせんか。
安倍が辞めて総裁選でも開かれれば目があるといわれる菅官房長官、小池百合子の悪口と身内の自慢話しか能がないようだ
安倍が辞めて、総裁選でも開かれれば、この男にも目があるといわれるのが菅官房長官である。今月の文藝春秋に、菅のインタビューが掲載されている。読んでみたが、何のことはない、大嫌いな小池百合子都知事批判に自慢話、身内を褒めそやしているだけである。
たとえば、コロナ感染初期の段階で、小池がPCR検査数を出してこなかったことや、都と23区の連携不足を批判した後、こういっている。
「その一方で大阪では、吉村洋文府知事のリーダーシップが目立っていますが、それだけではなく、松井一郎市長が後ろでしっかり支えていることが非常に大きい」と褒めあげている。
吉村の政治家にあるまじき「うがい薬がコロナに効く発言」や、このところ東京を抜いて大阪の感染者が増えていることを、菅はどう考えているのだろう。
さらに、新潮によれば、国家安全維持法が施行され、これまで「アジアの金融センター」として確固たる地位を築いてきた香港から、「金融関連の人材や企業などが流出する動きが出始めているが、菅官房長官はこれを好機と捉えている。7月中旬以降、急きょ、懐刀である和泉洋人補佐官に対して、『我が国への国際金融機能・人材の誘致策』について検討することを指示した」(政府関係者)という。
世界の金融市場は1位がニューヨーク、2位がロンドンで、3位、4位を香港とシンガポールが争ってきた。
その香港は中国の介入があからさまになり、金融市場としての地位が低下するかもしれないから、東京がそこに食い込めないかを考えること自体、悪いことではない。
菅官房長官はもう総理にでもなった気でいるようだ。早くも維新の吉村大阪知事と福岡の麻生に色目を使い始めた
だが新潮のいうように、そのためには、世界中のお金が集まる仕組みをつくらなくてはいけない。
「まず、相続税と贈与税がなく、金融取引に関する税金もかかりません。さらに、共同名義口座といって、赤の他人同士でも口座を共有出来る仕組みがあります。これによって財産を共有して自由にお金の出し入れをすることが出来るわけです。例えば、愛人との共同名義の口座を作れば、税金なしで誰にも知られず大金を渡すことが出来ます」(シグマ・キャピタルのチーフエコノミスト田代秀敏)
法人税も安いし、公用語は英語だから、外資系企業が集まりやすい。
そうした様々なハードルを乗り越えなくてはいけないのだが、菅は特区をつくってしまえば何とかなると考えているようだ。
さらに驚くのは、菅が日本で考えている金融市場は、東京ではなく、大阪か福岡だというのである。
7月中旬と下旬に、法務省や金融庁などの幹部による打ち合わせが行われ、菅の意を受けた和泉が、「大阪を中心とする関西圏や福岡の特区に国際金融機能や人材を誘致するための課題を検討せよ」と言い放ったというのだ。
菅の意図はすぐわかる。大阪は日本維新の会への土産、福岡は麻生太郎の地元である。
どうせできっこないのだから、菅のリップサービスだろう。だが、文藝春秋で「総理がポスト安倍の候補として私の名前を挙げたようですが、リップサービスですよ(笑)」と言ってはいるが、気分だけははや総理のようである。
悪相、暗い、陰険。菅の顔を朝のテレビで毎日見ると思うと、メシがまずくなるな。
渡哲也と吉永小百合は愛し合っていた。結婚の障害になったのはカネを生む宝物だった娘を手放せなかった小百合の父親だ
さて、映画俳優の渡哲也が亡くなった。享年78。
渡といえば、映画『愛と死の記録』(1966年)で吉永小百合と共演したことが思い浮かぶ。
それがきっかけで2人は愛し合うようになる。アサ芸で映画関係者がこう話している。
「渡は小百合のことを『うちのカミさん』と呼ぶようになったんですが、酔っ払うと『小百合はなんで俺のところに飛びこんできてくれないんだ!』と大荒れ。小百合に電話をして結婚を迫ったといいます」
障害になったのは小百合の父親だった。父親は小百合に、「あんな男じゃ、お前が苦労するのは目に見えている」と猛反対したとアサ芸は書いているが、私は違う見方をしている。
挫折を繰り返してきた父親にとって、小百合はカネを生む宝物だった。せっかくここまで育ててきたのに、男にとられるのが許せなかったのだ。 松坂慶子と父親との関係もそうだった。カネのない男と結婚しようという娘を、父親は許せなかった。以来、長い間、泥沼の骨肉の争いが続いた。
小百合が岡田なる年寄りと結婚したのも、父親への復讐であった。
YouTubeで、石原プロの何周年かのお祝いの動画を見たことがある(まだ載っているのでは)。
左側のピアノの前に小百合がいて、横に渡が立っている。
石原裕次郎が、2人に何か声を掛ける。渡が照れくさそうに苦笑いする。小百合はにこやかに下を向く。「おまえたち似合いだったのにな」とでもいったのか。
渡のヒット曲、『くちなしの花』を、小百合がピアノを弾き、渡が歌う。2人の過去を知っている者にとっては、涙なくしては見られないお宝映像である。
「夏の海が大好きだった渡さんは、泳いで泳いで恒彦さんのところに...」小百合はどんな思いでこの追悼文を書いたのだろうか
渡が結婚したのは29歳の時だった。ネットの女性自身(8月18日)で、ベテランの映画関係者がこう話している。
――「俊子さんは大手鉄鋼会社の役員の令嬢で、青山学院大学では渡さんの1年後輩。渡さんの一目ぼれだったそうです。しかし結婚にこぎつけるまでは何年もかかりました。当時の渡さんには大勢の女性ファンがいたため、なかなか公表することができなかったのです。ハワイで2人きりの結婚式を挙げたのは1971年3月、渡さんが29歳のときです」
渡さんと俊子さんの結婚生活は49年と5カ月。しかしその間に、渡さんは幾度も病魔に襲われた。48年前の1972年7月には、京都でテレビドラマ撮影中に高熱を出して病院に運ばれた。
「その後、俊子さんの伯父が院長を務めていた東京都内の病院に転院します。当時の俊子さんは妊娠中でしたが、病院食が苦手な渡さんのために、自宅で食事を作っては、運んでいたのです。肉体的・精神的負担が大きかったためか、俊子さんは何度も流産の危機に襲われました」(前出・映画関係者)――
1974年に放映されたNHK大河ドラマ『勝海舟』では主演だったが、肋膜炎のため途中降板。さらに1991年には、直腸がんに襲われる。渡の人生はまさに病魔との闘いの日々でもあった。
深作欣二の『仁義なき戦い』も、当初は渡が主演だったが、体調不良を理由に断ったといわれる。
決してうまい俳優ではなかった。渡の代表作である『仁義の墓場』は病み上がりだったために、「その異様な迫力が、高い評価を得ることとなる」(アサ芸)のだが、公開後には膠原病で入院する。
尊敬する裕次郎に先立たれ、石原プロを守り、病と闘い、カッコイイ男を演じ続けた。お疲れ様というしかない。
吉永小百合は追悼メッセージを8月14日に発表した。
「夏の海が大好きだった渡さんは、泳いで泳いで恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか。大きな病気を何度も乗り越えてこられたのに残念です。ご冥福を心からお祈りいたします」
どんな思いで、この文章を小百合は書いたのだろう。(文中敬称略)