安倍は麻生を呼び「自分の身に何かあったときは麻生さんにお任せしたい」と伝えた。国民には、持病を抱えてもしがみつく安倍か、麻生かの「究極の選択」しかないのか?真っ暗闇じゃござんせんか!

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「夏の海が大好きだった渡さんは、泳いで泳いで恒彦さんのところに...」小百合はどんな思いでこの追悼文を書いたのだろうか

   渡が結婚したのは29歳の時だった。ネットの女性自身(8月18日)で、ベテランの映画関係者がこう話している。

   ――「俊子さんは大手鉄鋼会社の役員の令嬢で、青山学院大学では渡さんの1年後輩。渡さんの一目ぼれだったそうです。しかし結婚にこぎつけるまでは何年もかかりました。当時の渡さんには大勢の女性ファンがいたため、なかなか公表することができなかったのです。ハワイで2人きりの結婚式を挙げたのは1971年3月、渡さんが29歳のときです」

   渡さんと俊子さんの結婚生活は49年と5カ月。しかしその間に、渡さんは幾度も病魔に襲われた。48年前の1972年7月には、京都でテレビドラマ撮影中に高熱を出して病院に運ばれた。

   「その後、俊子さんの伯父が院長を務めていた東京都内の病院に転院します。当時の俊子さんは妊娠中でしたが、病院食が苦手な渡さんのために、自宅で食事を作っては、運んでいたのです。肉体的・精神的負担が大きかったためか、俊子さんは何度も流産の危機に襲われました」(前出・映画関係者)――

   1974年に放映されたNHK大河ドラマ『勝海舟』では主演だったが、肋膜炎のため途中降板。さらに1991年には、直腸がんに襲われる。渡の人生はまさに病魔との闘いの日々でもあった。

   深作欣二の『仁義なき戦い』も、当初は渡が主演だったが、体調不良を理由に断ったといわれる。

   決してうまい俳優ではなかった。渡の代表作である『仁義の墓場』は病み上がりだったために、「その異様な迫力が、高い評価を得ることとなる」(アサ芸)のだが、公開後には膠原病で入院する。

   尊敬する裕次郎に先立たれ、石原プロを守り、病と闘い、カッコイイ男を演じ続けた。お疲れ様というしかない。

   吉永小百合は追悼メッセージを8月14日に発表した。

   「夏の海が大好きだった渡さんは、泳いで泳いで恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか。大きな病気を何度も乗り越えてこられたのに残念です。ご冥福を心からお祈りいたします」

   どんな思いで、この文章を小百合は書いたのだろう。(文中敬称略)

元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長。現在は『インターネット報道協会』代表理事。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。

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