私も六本木の店で志村けんの顔を見たことがあるが、芸人特有の明るさ軽さは感じなかった。芸能界の住人とは思えなかった
さて、志村けんというのは、死んでもなお、人柄や芸が評価され続ける、稀有な芸人である。
文春で志村を中心に、ドリフターズの歴史を辿る連載が始まった。冒頭、象徴的な出来事が起きる。
ドリフの人気を決定づけた「8時だョ!全員集合」の第1回目が放送される1週間前に、志村が忽然と姿を消してしまったそうである。
リーダーのいかりや長介の付き人をやって1年半が過ぎた1969年9月のことだったという。
元TBSの西川光三が、西武線の車内のドアのところに佇んでいる志村を見つけ、声を掛けると気まずそうにしていたが、答えはなかったそうだ。
「あの時の寂しそうな表情がいまも印象に残っています」
当時20歳。失踪してから1年、会社員やスナックのバーテンダーなどを転々として、再び付き人に復帰する。
私も六本木の店で顔を見たことがあるが、芸人特有の明るさ軽さは、志村には感じなかった。志村を知らなければ、芸能界の住人だとは思わないだろう。
話は、毎週木曜日の午後3時から行われるネタ会議の凄まじい緊張感、いかりやの完璧主義が描かれる。
なるほどと思わせるのは、いかりや長介が目指していたのはドタバタ喜劇で、彼は日頃から、「俺たちは演技をしているんじゃない。『体戯』をしているんだ」といっていたそうで、厳密に計算された『動き』による笑いにこだわったという。
いかりやから志村にネタ会議の主導権が移ったのは1982年。それから3年後に、「8時だョ!全員集合」は長い歴史を閉じた。
筆者の西崎伸彦に望みたいのは、志村の人間としての人生を辿ることはもちろんだが、志村の笑いを、活字で表現してもらえないかということである。
私も昔、萩本欽一の連載を現代でやったことがある。彼の半生を描くのではなく、彼の笑いを写し取りたかったが、私の未熟さのため、不出来なものになり、途中で連載を打ち切ることになって、欽ちゃんには迷惑をかけた。
志村けんの笑いを活字で読んでみたい。そう思っている。(文中敬称略)