渋谷駅東口の大規模改造は、2020年東京オリンピックを睨む。いわば表の顔だが、実はもう一つ、100年に一度という再開発が同じ駅の西口で進行中だ。国道246号と首都高速を隔てた南側、桜丘町である。ここでクロ現は、タイムトラベルを味わった。
桜丘町は戦前、渋谷駅の表玄関だった。今渋谷の中心になっているセンター街のあたりはまだ住宅街で、駅の改札は桜丘町を向いていた。また、青山から渋谷まで丸焼けになった戦災を、ここだけ奇跡的に免れていた。だから、戦前の木造家屋や昭和の初期に建ったアパートが残っていた。
半世紀も続いた立ち飲みの居酒屋、伝説のライブハウスの数々
町が一変したのは、55年前の東京オリンピックだった。駅との間に国道246号と首都高ができて、桜丘町は分断されてしまった。逆に駅の北側は、原宿寄りの米軍住宅が選手村になり、のち渋谷公会堂などができて、渋谷の中心になっていく。桜丘町は取り残されてしまったのだった。
囲いに覆われた中へ、クロ現のカメラが初めて入った2月(2019年)、町は無人だった。工事の音はするが人が見えない。ビルや建物の内装を撤去していたのだった。やがて建物の解体が始まると、次々と「時代」が現れた。
ビルの地下には、半世紀も続いた立ち飲みの居酒屋があった。カウンターだけで、時には100人もが入った。安いのが売りで、サラリーマンのオアシスだった。マダムの原川ヨシエさんは、「気楽に飲めたから、来る人は毎日きた」という。
ビルの残置物の中に、ドラムスティックなどライブハウスの備品があった。ここがかつてニューミュージックの拠点であった証である。ステージもあった。レコーディング・スタジオもあった。中島みゆきの「時代」や長渕剛の「乾杯」もここで生まれ、CHAGE&ASKAも育った。
日本中から集まった若者がしのぎを削った場所だった。舞台の床には、「今までありがとう」「私を成長させてくれた場所」「感謝感激」などの書き込みがあった。
駅の北側が渋谷の顔になっていく中で、バブルも華開いたが、その波は桜丘町には届かなかった。ただ、地価が比較的安かったために、独特のものが育った。塾、英会話、ギター、バーテンダー、ボクシング、空手、ダンスなどの教室だ。
1965年から昨年(2018年)まで53年間続いた「玉井ダンス教室」は、2006年の映画「Shall we ダンス?」のモデルになった。周防正行監督もレッスンを受け、映画の想を練ったという。昨年5月31日、最後の曲は、無論その曲だった。