三島由紀夫と川端康成。文豪2人の自殺の原因に「新事実」が浮かんでいる。先月(2019年1月)、スウェーデン・アカデミーが半世紀前のノーベル賞選考資料を初めて公開した。川端がノーベル文学賞を受賞した1968年、三島も候補に名前があがっていた。
そこで三島は「今後の成長によって再検討も」と評価され、将来受賞の可能性があったのだ。しかし2年後の1970年、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺し、さらに2年後には川端もガス自殺した。日本を代表する作家2人に何があったのか。もし三島がノーベル文学賞をとっていたら、どうだったのだろうか。
「君は若い。私は年だ」と三島に頼んでいた川端
三島作品の演出を多く手がける宮本亜門さんには「三島がノーベル賞ごときに影響されるだろうか」との思いがあるそうだ。三島の『金閣寺』にひかれて作家を志したという平野啓一郎さんは「ノーベル文学賞をとっていたら、作品を手にとる印象も違っていただろうか」とつぶやき、女優で文筆家の中江有里さんは「三島が受賞していたら、川端の受賞はなかった。三島のノーベル賞は現実的でなく、序列で上の方がとったのでは」と話す。
自衛隊市ヶ谷駐屯地構内の柱には刀傷が今も残る。三島が「じゃまするな、出ていけ」と言葉を発した際の傷跡だ。なぜ三島はこんな行動をとらなければならなかったのか。今も「疑問ばかりが残ります」と宮本さんは考え込む。
三島は小説を川端に直接売り込んだ。文芸誌に載せるように後押しされて一躍人気作家となり、「世界の文豪」とまで評されるところまで上った。三島とかかわった編集者は「ノーベル賞だけは数ある賞の中でも別格だという感じがあった」「自分にはその価値があると自負していた」と語る。「文豪2人の間の複雑な感情」を指摘する編集者もいる。
川端受賞の前年、三島は評論の一節に「私は或る作家の作品を読まない。彼は円熟した立派な作品を書くことがわかりきっているからである」と意味深長なことを書いている。三島由紀夫文学館の佐藤秀明さんは「ここから川端を思い描くのは当然で、冷たく突き放すものを感じます」と受けとめる。
三島演劇で数々の主役を演じ、三島との親交も深かった女優村松英子さんが、三島の母から聞いたという話では、三島が川端の家に通っているとき、川端に「君はまだ若い。私は年だ」と頼まれたそうだ。これ以前にも、川端は三島に推薦文を依頼しており、ノーベル賞受賞翌日のテレビ番組で「(ノーベル賞受賞は)編集者と三島君のおかげ」とコメントしている。
平野さんが「日本人同士、先輩後輩でどちらがとるかを争うなんて、おかしな話だ」と評する、まさにそうした状態になっていたかにも見える。
川端受賞の1968年10月、三島は民間防衛組織「楯の会」をつくる。学生など100人を集め、自衛隊への体験入隊や武道訓練を始めた。行動をともにした元幹部の本多清さんは「40歳をすぎて、文豪として死ぬか、英雄として死ぬか、その岐路に来ていた」と振り返った。
ノーベル賞をとっても三島は「自決」の道を選んだ?
三島がノーベル文学賞を強く意識していたという人は多い。ただし、編集者だった櫻井秀勲さんが「もし三島がノーベル賞をとったら、その後も責任をもってちゃんと小説を書いただろう。賞をもらっていたら変わっていたと思う」というのに対して、村松英子さんは「賞をとっても生きていなかったと思います。日本の美しさへの危機感があったことは確かです」と話す。
川端康成は三島の死を聞いて現場に駆けつけた。川端家の手伝いをしていた女性に「三島に関するものは、雑誌でもなんでもいいからとっておいて」と資料集めも頼んでいた。
川端は受賞後、多忙をきわめて執筆が止まった。川端の自殺に三島の自決が影響したかどうか。大阪府茨木市の川端康成文学館には死の6日前に心情をつづった手紙が残る。「病とも申せぬ心の弱りを非常に意識しています」とあった。研究員の深澤晴美さんは「直近の死を自分で感じているようなところがあります」と読んだ。不眠に悩んでいたという。
川端と親交があった女優岸恵子さんは「独自の美意識のためとか、書けなくなったとか、噂はありましたけど、そんな方ではなく、もっと芯が図太い。三島自殺の影響はなく、必然的なしめくくりだったと思います」
日本文学研究者のドナルド・キーンさんは「受賞者レベルに達する作品を書けないために死を選んだとも考えられる。美に繊細なのが原因かと思うこともあるが、みな想像にすぎません」
2人の作家とどう向き合うか。宮本さんは「人間の矛盾が2人とも露骨に出ていて、読み続けたい。どちらも謎多き、魅力的な作家だと思う」という。結論は出なかった。
※NHKクローズアップ現代+(2019年2月4日放送「三島由紀夫×川端康成 ノーベル賞の光と影」)