埼玉県の遺跡で発見された埋蔵銭の話が先週(2018年3月上旬)、ネットを駆け巡った。中世の歴史を揺るがすかもしれないというのだ。室町時代の銅銭だが、数が半端じゃない。なんと26万枚。誰が? なんのために?と謎解きが始まった。
見つかったのは、同県蓮田市の新井堀の内遺跡。直径94センチ、深さ74センチの巨大な陶製のカメの中にぎっしり詰まっていたのは、開元通宝、元豊通宝、永楽通宝など19種類。一緒に見つかった木簡には「二百六十くわん(貫)」とあった。26万枚は、この記述からの類推だが、これほど大量の古銭の発見は例がない。
江戸城を作った太田道灌の家臣の屋敷跡から出た
昨年(2017年)12月25日、県道の拡張工事で発掘調査をして発見した。深さ1.6メートルの地中からだった。調査団は9日(2018年3月)会見したが、「わあーすごい、の連発だった」という。その後、カメは15世紀前半に作られた常滑焼(愛知)とわかった。
この場所は、江戸城を作ったことで知られる室町時代の武将、太田道灌の家臣の屋敷跡だという。古銭の由来も興味が尽きないが、巨大なカメを、知多半島の常滑から埼玉まで、どうやって運んだのかも、知りたいところだ。
太田道灌とはどんな人物だったのか。歴史評論家の野島博之さんは、「歌舞伎俳優に、全盛期の具志堅用高さんが合わさったような(爆笑)......30戦無敗というので有名で、文化人でもあった」
その太田道灌が江戸に城を作ったのが、1457年。その10年後、京都を舞台に応仁の乱が起こる。10年の戦乱は、京都を灰塵に帰したが、この乱以降、西日本では埋蔵銭が流行したという。ところが関東では、これより30年も早く、戦国時代になっていた。
関東ではそうした戦乱の中で、いざという時の軍資金、あるいは財産を守るために銭の埋蔵が行われたらしい。2009年には熊谷市でも大量の埋蔵銭が見つかっている。野島さんは、他にも、祈りというか、結界を張るためにも埋めた可能性がある」という。
そこで「ハウマッチ?」。この古銭は当時の価値に直すと約2600万円の値打ちがあったという。ところが、現代での価値はと言うと、たったの「500万円」。「エーッ」と声が上がる。
ナビゲーターの岸本哲也は、「しかし和同開珎(飛鳥時代の日本最初の流通貨幣)なんかが出てくると、話が違ってくる。1億円も?」
小倉智昭は「そんなもの入っていないでしょ」と冷たい。
野島さんは「絶対ないとは言い切れない」
和同開珎は708年。今回見つかった中で開元通宝は、唐時代の621年から使用されている。室町まで使われていたということだ。26万枚はまだ上から眺めただけで、底の方は手付かずだ。出るのかな。
小倉は、「26万枚も古銭が出回ったら、値打ちは下がっちゃう」と、まだ水をかけていた。