一か月すると、東日本大震災から丸7年が経つ。災害の瞬間や被害状況を振り返る初動報道は年に一度、3月11日前後に報じられるにとどまるようになり、仮設住宅・高台移転・除染土の運搬先などの周辺の話題は、日常のトピックの中で徐々に薄れていく。「そういえば、あの問題はどうなったのか?」。その問いに応えることができる人が、あまりに少ない。
一本の道路を隔てる「市営住宅」と「県営住宅」
だからこそ、当事者の憤り、閉塞感、取り残された思いが強まる。震災が物理的に与えた被害の先の諸問題、例えば補償、例えば待遇の違いで分断された人々は、外から見ただけでは違いが分かりにくい。内に秘めた不満があっても、表に出てその気持ちを口に出すには勇気がいる。今度は自分が「そうは言うけどあんたらは...」と叩かれるのではないか。疑心暗鬼の連鎖が、互いの口を貝のように閉ざさせている。
ドキュメンタリが取り上げるのは、そんなこう着状態の只中にある2つの団地だ。津波被害で住居を失った「被災者」用の市営住宅と、道路一本を隔てて立つ、原発事故の影響で故郷を捨てることを強いられた「避難民」用の県営住宅。たった10メートル足らずの道路の上には、「見えない壁」が立っている。
「被災者」代表として登場するのは、市営住宅の自治会長を務める藁谷さんだ。76歳ながら、精力的に団地の代表の仕事に励む。60年あまり住んできた海辺の家は、とても人が住める状態ではなくなった。当初は修理を希望していたが、見積もりをとったら、津波被害への補償額(最大で300万円)を大きく上回り、引っ越しを余儀なくされた。年金暮らしに、これから家を建て、借金を返す体力はない。
対する「避難者」代表として、団地間の交流の必要を訴えるのが、県営住宅の自治会長を務める佐山さんだ。4人家族が暮らしてきた家は津波に流されたうえ、原発事故で戻ることも許されなくなった。故郷がなくなり、ぽっかりと穴があいたような気持ちで過ごす日々だからこそ、きちんとこの地に根を張りたい。そのために、この地のコミュニティーを育む者同士での交流が必要だ。
数千万円単位の補償金を得た「避難者」の言い分はそうかもしれないが、日々の暮らしもカツカツな「被災者」からすると、提案自体が金持ちの"交流"の押し売りとしか思えない。藁谷さんもまたモヤモヤを抱えながらも、自治会長としての責任感から交流会の運営に手を貸すことにする。だが、同じ団地の住人は、チラシ配りを手伝う者もなく、心情的に相容れない気持ちだけが強くなっていく。