ボクシングの村田諒太選手(31)が22日(2017年10月)行われたフランスのアッサン・エンダム(33)とのWBA世界ミドル級タイトルマッチを、7回TKOで制し、世界チャンピオンになった。前回の試合で村田の判定負けとしたジャッジが資格停止になった因縁にも決着がついた。
村田はこの試合、終始リードを続け、7ラウンドにはエンダムは足元がおぼつかなくなって、ついに棄権。日本の五輪の金メダリストが世界チャンピオンになるのは初めて。村田選手は、リングで「これは高校の恩師が言っていたことです」と前置きして、こういった。
「ボクシングで勝つということは、相手を踏みにじって、その上に自分が立つということ。だから、勝つ人間は責任が伴うのだと。だから、彼の分の責任を伴って、これからも戦いたい」
村田選手の軌跡は順風満帆とはいかなかった。小6で両親が離婚、少し荒れていたのを心配して、中学の担任がボクシングを勧めたのが始まりだった。高校はボクシングの名門、南京都高校(現・京都廣学館高校)に進学。そこで恩師、武元前川先生と出会った。
その後、仲間の紛争に手を出してしまい、ボクシングから離れようとした。その時武元先生はこういった。「手を出したのはお前が悪い。やめてどうなる。お前の拳はそんなことをするためにあるんじゃない。あらゆる可能性が秘められた拳なんだよ」
村田の破竹の進撃が始まったのはそれからだ。タイトルを総なめにし、東洋大では全日本チャンピオンになった。しかし08年の北京五輪は予選敗退。ここで一旦引退する。しかし、4年後、ロンドン五輪には日本代表として復活していた。そして、金メダル。日本選手は48年ぶりだった。
ただ、武元先生はその2年前、急死していた。村田選手はだから、恩師に晴れの姿を見てもらっていない。しかし、言葉だけは頭に刻まれている。
27歳でプロ入り、遅い挑戦
2013年、村田選手はプロの道に入った。27歳という遅めの挑戦だったが、それから4年で、ついにチャンピオンベルトを手にした。思わず溢れた涙に、息子は「パパが泣いたのを初めてみたよ」と言ったそうだ。
メンタルトレーニング上級指導士の田中ウルヴェ京さんが、村田選手とのLINEのやり取りを見せてくれた。「自信とは、努力と結果が結びついた時に生まれる。闘争心は私にはプラスにならない」。なんと哲学的な.......。
妻の佳子さん(35)も一心同体だという。試合前は一緒に禁酒。どこかに連れて行ってとは言わない。北京五輪の後悩んでいた時、「ぐずぐずしてないで、出ればいいじゃない」と背中を押したのも佳子さんだった。
国分太一(キャスター)「それを言ってなかったら、金メダルを取ってないことになる」
村田選手はまた、育メンでも知られる。長男(6)、長女(3)の保育園の送り迎えのほか、洗濯、オムツ替えまでなんでもやる。13年には育メン・オブ・ザ・イヤーに選ばれている。心優しいパパでもある。