大相撲の通算勝利記録1048を更新して1050までのばして優勝もした横綱白鵬。名古屋場所が終わった直後に武田真一キャスターが胸の内を聞いた。モンゴルから15歳で来日した当初は細くて「向いていない」とさえいわれた少年は、どうやってここまで上りつめたのか。これから何をめざすのか。
通算勝ち星と優勝記録という二重のプレッシャーがかかる場所だった。1048勝目をあげてからの土俵にはさすがの白鵬も苦労したように見えた。この点を振り返る白鵬には実感がこもっていた。
「(プレッシャーに)飲み込まれましたね。翌日は気合が入らない。これじゃあダメだと自分に言い聞かせ、ギリギリの状態で土俵に上がった。ひと場所で記録と優勝の、喜びが2回3回とありました」
関脇時代の雅山戦が転機に
平成13年の初土俵からこれまでで最も意味のあるターニングポイントとなった一番を聞かれて、白鵬は関脇時代の雅山戦をあげた。左前みつを取って四つに組んだ時に「左ひざが土俵につくかと驚いたが、この型だと思った」と話した。まわしを引いて右四つになる得意型を見つけた。それから「番付がおもしろうほど上がっていった」という。
白鵬が理想にあげたのは、伝説の横綱、双葉山だ。映像を何度も見て研究してきた。立ち合いに相手を受けとめてから瞬時に得意の型に持ちこむ「後の先」(ごのせん)と呼ぶ極意を「体得したいと考えた」そうだ。
通算561勝目の日馬富士戦が自身でも「完ぺきな後の先だった」という。しかし、白鵬もそうそうはできる極意ではなかった。「後の先は精神的にも大変で、富士山のもう一つ上にある。ひと場所15番中に多くて3番」と明かした。
白鵬が意識したのは勝つことだ。「プロは結果を残さなければいけない。横綱は負ければ引退」と思っている。そのためか、近年は、異なる取り口もある。
立ち合いから張り手を飛ばし、かち上げ、ねじ伏せる。今場所は横に飛ぶ変化も見せた。とくに張り手には「横綱が格下相手にやることではない」「相手が横綱のほおを張れるはずがないから対等な勝負ではない」などの批判がわき、横綱の品格が問われもした。
その疑問を白鵬は意識していた。「ふさわしくないと言われることがありますね。でも、野球のピッチャーも、ストレートばかり投げていたら肩を壊す」と反論した。今は出てよし、組んでよしと言われたいそうだ。
横綱大鵬の優勝回数32回を上回るのが最大の目標だった。平成27年初場所で33回目の優勝を達成してから、この年秋場所は初日から2連敗し、横綱昇進後初の休場に追い込まれた。以後2年弱の間、10場所で優勝は2回しかなかった。白鵬は「目標とか夢とかがなくなっていた」と振り返った。新たな目標は横綱千代の富士の横綱最多勝利記録1045だった。「やっぱり並びたいと思う。正直、人間ですから、稀勢の里の横綱昇進で再び奮い立つものがあったかな」とも語った。
平成の大横綱としてモンゴルに錦を飾り、八百長疑惑で存亡の危機にあった日本の相撲界を一人圧倒的な強さで支えた。だが、人々の関心が相撲に戻った時には「強すぎる横綱」に、ファンの目線は変わっていた。日本人の人気力士遠藤との一番で遠藤に大声援が贈られた。稀勢の里が白鵬に勝つと、万歳の連呼がわき起こった。
相撲ファンで知られた劇作家内館牧子さんは「あの万歳はショックだったと思う。これだけやってきて万歳かというのはあったのではないか」と推し測る。
白鵬は「応援には来る人の思いがあるので、いいように考えていくしかない。勝って騒がれるより負けて騒がれろという双葉山の言葉を思い出して使っている」という。
これからは大相撲に恩返し
「これからどんな相撲人生を?」と聞く武田キャスターに、白鵬は「大相撲に恩返し」と答えた。「自分の国、両親、家族を愛せない人には他の国も愛せない。日本の人々に愛され、自分も愛している。できるだけ長く務めていくことだと思う」
相撲ファンを持って自らを任ずるデーモン閣下は白鵬への期待を「一つ一つの所作を白鵬流の美学で見つめ、美しい相撲を作ってほしい」と話した。武田キャスターは「日本の文化を世界に伝えたいという思いに心うたれました。戦い続ける大横綱はまだまだ楽しみです」とまとめた。
それでも張り手問題などの疑問は消えないけれど、白鵬の思いや立場がよくわかる内容だった。大横綱であることは間違いない。だからこそ「自分のやり方でさらに進んでほしい」「品格も大切にして」と二つの声援が飛び交うのだ。