江戸時代初期、幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教(信教を捨てる事)したとされる高名な宣教師フェレイラ(リーアム・ニーソン)を追い、弟子のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)は日本人キチジロー(窪塚洋介)の手引きでマカオから長崎へと潜入する。
日本にたどり着いた彼らは想像を絶する光景に出くわし、ロドリゴらは囚われの身になってしまう。守るべき大いなる信念と目の前の弱々しい命が共存する極限の精神状態の中、長崎奉行の井上筑後守(イッセー尾形)は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る――。
遠藤周作原作の小説を、カトリックに信仰の厚い巨匠マーティン・スコセッシ監督が「真の信仰」とは何かという命題に挑んだ。
窪塚洋介とイッセー尾形が素晴らしい
テーマは重く難題であるが、とにかく役者が素晴らしいことに触れておきたい。日本人役者の芝居が素晴らしく、中でも窪塚洋介とイッセー尾形の芝居が作品にもたらした影響は特筆に値する。窪塚洋介が演じたキチジローは物語の変革(裏切りという行為)を請け負うキーパーソンであり、醜い部分と純粋な部分の共存を要求されるが、ハリウッド俳優相手に、受けの芝居に終始せず、見事に立ち向かう姿は、ただただ誇らしい。
井上筑後守を演じたイッセー尾形は、井上筑後守という、元信者でありながら弾圧側として君臨する「厭らしさ」「賢さ」「芯のなさ」をコミカルな芝居で強調させている。彼の「本音と建て前」を巧みに使い分ける立ち振る舞いは「日本にキリスト教は根付かない」という作品のテーマを体現している。
原作と異なるラストをどう解釈
日本の一時代を切り取った時代劇としては完璧なドラマであるが、原作と異なるラストは波紋を呼びそうだ。スコセッシ監督がカトリック信仰を捨てきれず、あらゆる葛藤を、映画という表現媒体により浄化させていったと考えれば、合点はいくかもしれない。日本人が果たしてキリスト教にどれほどの恩恵を受けたのか(救われたのか)、あるいは、日本人がどれだけキリスト教を享受しているのか、ネタバレを避けて言うならば「希望の有無」が本作の議論の争点となるだろう。
ラストの文字通りの「沈黙」の解釈は観る者に委ねられているのか。ノンクリスチャンである筆者は日本文学に対する西洋人の理解の限界を感じせざるを得なかった。
丸輪 太郎
おススメ度☆☆☆