用心深い大橋巨泉さんでも見抜けなかったとんでもない医者!カルテも読まずにモルヒネ系投薬

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   永六輔さんと大橋巨泉さんは年もほぼ同じ、同じ時期に亡くなった。テレビの草創期から活躍していた2人だが、芸域の広さでいえば永さんのほうだと思うが、亡くなった後のメディアの露出でいうと巨泉さんのほうが多いような気がするのは、私が一時期親しくしていたからだろうか。

   巨泉さんが亡くなった後、奥さんの寿々子さんがこんなコメントをメディアに出した。「皆様方も良くご存知のように夫は自他共に許す『わがまま』と言われ、痛い事やつらい事、待つ事、自分の意に染まない事は『避けて通る』というわがままでした。

   そんな夫が2005年に胃がんを手術、2013年には第4期の中咽頭がんで3度の手術と4回の放射線治療、昨秋には2度の腸閉塞と手術を、そして4月の在宅介護の鎮痛剤の誤投与と続いても、12日までの約11年間の闘病生活を勇敢に戦って来ました。特に4月からの3ヶ月間は死を覚悟し、全てを受け入れ、一言の文句も言わず、痛みも訴えずに、じっと我慢をしてくれました。(中略)

   そして最後は眠ったまま静かに旅立ちました。たぶん、若くして亡くなった大好きな母親の迎えを受けての旅立ちだと思います」

   永さんの死と参議院選の結果は本人には伝えなかったと聞いている。

   週刊現代によれば、巨泉さんは3月に入院した国立がん研究センター中央病院ではがんは見つからなかったという。自宅での介護は問題ないといわれ退院してきて自宅にいたのだが、そこへ訪ねてきた在宅介護の院長が、がんセンターのカルテも読まずに、巨泉さんが背中が痛いというと「背中の痛みを抑えるために薬を飲みましょう」とモルヒネ系の薬や貼り薬を処方されたというのだ。

   それによって、普通に歩いてトイレへも行っていた巨泉さんの容体が急変してしまった。見かねた奥さんと弟さんががんセンターの医師と話し、その後がんセンターへ戻そうと車で出た直後に意識がなくなり、集中治療室へ運び込まれたが、そこを出ることなく息を引き取った。

   後にこの医者は皮膚科の専門医であったことがわかった。医者からは「緩和ケアをするものだと勘違いしていた」と詫びの電話があったというが、とんでもない医者がいたものである。

   こうしたことがなければ、巨泉さんは最後までクオリティ・オブ・ライフをまっとうすることができたのではないか。週刊現代は巨泉さんのケースを、だから危険な手術や危険な薬は飲んではいけないのだと大特集に結びつけている。そうかもしれないが、この医者のケースはひどすぎると思う。巨泉さん、さぞかし無念だっただろうな。

芥川賞「クレージー村田沙耶香さん」コンビニ小説楽しめそう

   芥川賞作家になった村田沙耶香さん(36)はコンビニアルバイト歴18年で、書いた小説が「コンビニ人間」。「コンビニの仕事を通してのみ自身の存在意義を感じ、『普通』を強要する世間に違和感を覚える姿を描いている」(週刊文春)そうだ。

   文学賞を受賞した小説の劣化がいわれて久しい。直木賞選考委員の北方謙三氏も年々おもしろくなくなって来ていると嘆いていた。村田さんの小説は未読だが、「清楚な見た目と裏腹に、エッジの利いた人柄から『クレイジー沙耶香』の愛称で呼ばれることもある」(同)そうだから、楽しめるかもしれない。

   西村賢太氏は日雇いを続けながら書き続け、芥川賞をとった。今も昔も、小説を書くためにはそれ相応の苦労が必要なのだろう。過日、西村氏の行きつけの鶯谷の居酒屋「信濃路」へ行ってきた。千ベロとはいかないが二千ベロは間違いない。

   カウンター中心の店で、ひとりで入ってもゆっくり飲める居酒屋の王道を行く居酒屋である。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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